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論壇 ― 適応するばかりが能ではない
精神医学的分析を一度やめてみたらどうだろう。そんな専門家の手を借りるから、問題はかえってわからなくなり、問題を発生させた背景が見過ごされてしまう―― 私はそう思う。
私が言っているのは、このごろあいつぐ少年事件のことである。バス乗っ取り、主婦刺殺、五千万円恐喝、そして岡山の金属バット殴打事件。少年が事件を起こすたびに精神科医が出てきて、行為障害だ、被害妄想だ、性格の極端なかたよりだ、と解説してみせる。
暗黙のうちに了解されるのは、本人がすべて悪かったということ。本人以外に責任はない、ということである。結果、当の少年たちだけが隔離され、一件は落着する。そのくり返し、またくり返し。
本人だけが悪かったのなら、なぜ似たような事件が次々と、あちらでもこちらでも起きるのか。私たちはその答えを、ついに精神科医たちから聞くことがない。
ここで十一年前の夏に起きた連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤被告に対する精神鑑定のことを思い起こしておくことも、無駄ではあるまい。一審は七年半におよび、うち五年間が精神鑑定に費やされた。鑑定結果は「正常」「潜勢的な分裂病」「解離性同一性障害(多重人格)」の三つに割れた。
これではまるで、健康、がん、複雑骨折と三つの診断があったようなものではないか。内科や外科なら、このやぶ医者どもめ、と患者は天を仰ぐところだ。五年かけてもこうだとすれば、事件のたびの精神医学的コメントの信用度など、たかがしれている。
宮崎被告に対する問診記録を読むと、まわりが「おっかなかった」とくり返し言っている。彼には両手首が不自由という障害があって、変な目で見られたり、いじめられたりしたという記憶がはりついていた。
神戸で起きた連続児童殺傷事件のA少年の弁護士たちは「こんな怖がりの少年を見たことがない」と述懐している。
佐賀のバス乗っ取り事件の少年や岡山の金属バット殴打事件の少年が周囲を怖れていたことは間違いない。佐賀の少年は中学時代にいじめに遭い、高所から飛び降りて大けがをした。岡山の少年も下級生の野球部員らから嫌がらせを受けていたという。教師たちも黙認していただろう。
周囲の者たちは、あれはたんなる遊びだったと弁解し、開き直る。いじめかどうかの客観的指標など、実はどこにもない。本人がどう受け取ったか、それだけが指標なのだから、周囲はけっして免責されないと、それこそ精神の専門家たちは常日ごろの臨床経験から得ているはずの知見をこそ語るべきではないか。
青少年たちが抱えるこの恐怖感は、まわりからの適応強制からきていると私は思う。野球部員らしく丸刈りにしろ、いっしょに階段から飛び降りろ、規則や規範を守れ、この進学コースに乗れ、安定した仕事につけと、いつまでたってもこの社会も学校も集団と集団が作りだす現実に従うこと、一体化することしか教えない。
この国では、個人は集団からのはぐれ者か、現実からの落ちこぼれとしてしか存在しないかのようだ。そのように負われたネガティブな自己イメージは自閉した少年たちの内界で、対話する他者を欠いたままねじれ、窯変し、やがて万能で、破壊的な自己像へと反転していくだろう。事故の少年たちが示唆しているのは、この明解すぎるほど明解な軌跡である。
適応するばかりが能ではない、と私たちは言わなければならない。人間が作ったものは人間が壊し、人間が作りかえてもよいのだという楽観を語り、実際に校則や決まりを、前例や制度を、政治や経済を変えてみせること。それは精神医学者のよくなすところではないだろう。
少年少女に集団や現実への適応を迫り、その結果として妄想世界へと追いやり、孤立させる家庭、学校、社会がつづくかぎり、事件はまた明日にもきっと起きる。もうそのことに、私は驚かない。
――朝日新聞 2000年7月21日付 朝刊より転載――
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