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故 佐守信男先生のご逝去を悼む
本学会名誉会員の佐守信男先生は平成11年12月23日早朝、肺気腫によりご逝去された。享年83歳であった。
かつて、「学校衛生の方向転換を命ず」として教育的学校衛生の確立を主張し、養護教諭の認定講習を含む現職教育を進め、「養護教諭の父」と慕われていた竹村 一 前教授(保健科担当)の後任として、昭和33年6月大阪大学医学部衛生学教室の講師から、神戸大学教育学部の助教授に着任された佐守先生は、同年12月には教授に昇任された。その翌年の昭和34年から、先生は「教育衛生学」を教育学、教育心理学と並ぶ教職専門の必修科目(2単位)として開講され、卒業の要件として教育学部の全学生が受講するという、神戸大学の特異なカリキュラムができた。当時、教育学部の教授会は、教員養成における教育衛生学の意義を確認し、大学自治の範囲で実現可能な措置であるとして、教授会での合意のもとに、昭和55年佐守先生が定年退官されるまでの20年間一貫してこのカリキュラムは続いた。
ところで、昭和39年9月25日付でその年の日本学校保健学会の会長であった金沢大学の村上賢三先生の名で、教育職員養成審議会長高坂正顕にあてた“「教員養成のための教育課程の基準について」に関する意見書”をみると
小学校教員養成の課程における専門教育科目について、次のように授業科目を開設
し履修させる。
(1) 教育原理(初等教育を中心とする)4単位
(2) 教育心理学(児童心理学を含む)4単位
(3) 教育衛生学(学校保健学を含む)4単位
中学校教員養成の課程における専門教育科目について次のように授業科目を開設し
履修させる。
(1) 教育原理(中等教育を中心とする)4単位
(2) 教育心理学(青年心理学を含む)4単位
(3) 教育衛生学(学校保健学を含む)4単位 |
としている。さらに同審議会が「学校保健」2単位として答申を出したのを受けて、同年秋の第11回日本学校保健学会の総会において、教育課程の基準改正に関する同様の要望書を日本教育大学協会委員に提出し、その実現に努力することを決議している。この要望は結局は、「学校保健」が教職専門の選択科目のひとつに取り上げられるにとどまった。
そして、第16回日本学校保健学会の特別講演「学校保健と教育」で佐守先生は、
――教科の教師の場合においても、教科専門のほかに、教育の目的としての健康にかかわる教職専門が、その仕事のなかで生きていなければならない。これと同様に、学校保健が学校現場で市民権を得るためには、学校保健関係者は、まず学校保健の専門としての健康、すなわち医学的用語で語る健康の保持増進に専門的知識と技術と卓見をもっていなければならないのはもちろんのことであるが、教職専門に属する教育の目的としての健康が身についていなければならない。いいかえれば、学校保健の本質には<学校保健の専門としての健康>と<教育の目的としての健康>が、同じ健康という言葉を媒介として、存在しなければならない。それでは、各教科の教師も学校教育の本質においてもたなければならない教職専門に属する<教育の目的としての健康>という概念は、どう考えるべきであるか、ということが問題になる。われわれは、10年前から、神戸大学教育学部で<教育の目的としての健康>について研究と教育をする新しい学問を構築し、これを「教育衛生学」と名づけ、全学生に講ずべき学部必修の教職専門科目として開講している。――
と述べている。
さらに、昭和40年から新たに設置された神戸大学教育専攻科においても教育衛生学専攻部門の柱を立て専攻生の教育と研究を指導するなど教育学部の教育研究体制の充実に寄与された。
また、昭和37年4月、神戸大学教育学部が基礎資格として看護婦の免許を有する者に対する一年課程の養護教員養成機関の指定を受けた後は、その運営の責任者として充実・発展に尽力された。後に特別別科となったが、先生の教えを受けた個性豊かな養護教諭は700名を超え、全国の学校現場だけでなく、地方教育委員会の学校保健係長や指導主事としても活躍している。一方、昭和34年から神戸大学保健委員会委員として保健管理センターの設立・発展に努めたのをはじめ、教育学部の統合移転に際しては新学舎建築委員長として環境衛生に十分配慮した学舎の設計に当たるなど、各種委員会の委員長を歴任され、附属学校長、評議員も併任し、大学、学部の管理運営に大きく貢献された。
ところで、先生の近畿学校保健学会でのご活躍は、昭和34年から評議員・幹事として常に学会の運営に貢献してこられ、昭和40年、同46年にはそれぞれ第12回、第18回学会の会長を務められた。これらのご功績を顕彰して、本学会は、昭和63年の総会において先生を名誉会員に推挙している。先生の学会活動は、ひろく日本学校保健学会、日本衛生学会、日本産業衛生学会、日本公衆衛生学会に及んでいる。
さらに社会的活動として、昭和37年に西宮市幼児教育審議会委員、同43年に神戸市校外学習等調査会委員、同49年〜55年には西宮市学校保健調査研究委員会委員長を務められた。また昭和41年、同43年、同44年と全国大学保健管理協議会研究集会環境衛生分科会会長。同43年保健指導の手引き作成協力委員、同45年学校保健百年史調査委員、同47年幼稚園教育研究集会責任者として尽力された。また、昭和43年〜46年と同48年、同52年に全国学校保健研究大会講師、同51年神戸市10大都市学佼保健協議会講師、同51年養護教諭中央研修会講師、同54年学校環境衛生講習会講師などを務め、学校保健、健康教育、幼児教育分野の社会活動にも多大の貢献をされた。
先生の代表的な著書として、「人間の歴史的自然―教育衛生学序説―」(六月社、昭和40年)、「幸福への賭け−科学的教育論−」(創元社、昭和44年)、「愛と創造のデッサン−幼稚園教育と教育−」(学習研究社、昭和47年)、「第二創世紀と人間−ホモ・クルティルーデンス−」(講談社、昭和54年)があるが、いずれも哲学書といってもよい、味わい深い力作である。
来るべき21世紀は、「脳の時代」「心の時代」といわれ健康教育の脱皮が強く求められている。わが国の政府も、ようやく中央教育審議会を通じて従来から進められてきた教育改革の検証にあらためて取り組もうとしている。この時期に、健康な人間のこころを追い求めてこられた先生を失うことは、惜しみても余りあるが、今はただ先生のご冥福を心からお祈りしたい。 合掌 (武田眞太郎)
――平成12年5月2日 近畿学校保健学会通信 No.96 より――
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