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故 竹村 一 先生を偲んで
近畿学校保健学会名誉会員竹村 一 先生は、昭和58年2月15日93歳のご高齢でご逝去されました。謹しんでご冥福をお祈りいたします。
先生の学校保健への最大のご貢献は、何といっても、わが国の明治以来続いていた医学的管理的学校衛生を、昭和の初頭早くも、教育活動として捉えることを提唱され、これが全国に多大の影響を与え、こんにちの学校保健の基礎を築かれたということであろう。健康教育を強調するアメリカのいわゆる教育的学校衛生がわが国に普及しはじめるのは、C.E.ターナーが来日し各地で講演する昭和11年以降のことであるが、先生が『教育としての学校衛生』を世に問い、この論文が官報に紹介されたのは、それよりも早く昭和9年のことであった。その後同名の書物を公にされたが、これは、単に学校で健康教育を強調するというだけのものではなく、学校衛生は教師自身がなすべき健康教育であるというものであった。また、この論拠から学校看護婦も教師であるべきと述べられ、こんにちの養護教諭が生まれる端緒をもつくられた。
先生は大正5年現在の大阪大学医学部の前身である大阪府立大阪医科大学をご卒業、翌6年には早くも大阪府体育調査医として学校衛生行政に携わられ、大正15年母校の大学の衛生学教室に石原 修 教授が着任されるやそこで学校衛生をご研究、昭和5年の医学博士学位取得の主論文もまた『学校衛生に対する衛生学的研究』であった。私と先生とのはじめての出会いは昭和15年私がまだ阪大医学部の学生で業室研究生として衛生学教室に出入していた頃。そして、戦後の昭和33年に当時神戸大学の教授を定年退官しておられた先生からご自分の後任に是非にとのご懇請を受けた。昭和34年の秋第6回日本学校保健学会を神戸で開催するに際し第6回近畿学校保健学会も併せて開催し、先生が会長、私が事務局長としてお世話したが、学会終了後、全国から参加の多数の当時錚々たる先生方がするすみの六甲山上から百万弗夜景を眼下にしながらのケーブルの中で「これからの学校保健」を熱っぽく語り合っておられたのを、先生のご人徳のお蔭と、今も忘れ難く思っている。先生はその後も芦屋大学教授として保健科を主宰され90歳のご高齢まで教壇に立たれ、さらにその後死に至るまで学校保健への情熱を燃やされていた。まさに、学校保健ひとすじのご生涯でありました。
先生のご性格はご自身で「土佐人のいごっそう」といわれた。確かに時に一徹なほど厳しい方であったが、それも学校保健への熱い想いからであり、先生ご自身は実に温情あふれるお人柄。この故にこそであろう。先生は終生、全国の多くの学校保健のみならず他の分野の方々からも慕われておられた。先生の私への最後の書状の未尾に「愚老はまだ死にません」という文字がある。先生の肉体は死んだ。が、先生に接していると、お考えに賛同する、しないは別として、これからの学校保健を考え直さねばならぬという原発条のようなものが湧き上がってくる。「まだ死にません」という文字が声となってその声が、学会員ひとりひとりの内部で生きている。先生とは、そのような未来へも架け橋するわれわれの大先達でありました。
合掌(佐守信男)
――昭和58年4月2日 近畿学校保健学会通信 No.44 より――
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