編集委員の声
武田 眞太郎
この15年間は、近畿6府県を一巡して、ようやく今後の継続が見込めるようになった後の時期で、どのように学会活動が定着し伝統が形成されていくか、その方向性が問われる時期でもあったろう。
最初に八木編集委員が触れたように、組織的には、学会設立の当初大阪学芸大学保健研究室に置かれた事務所が、1958(昭和33)年、第5回年次学会総会において会則の一部が改正され、京都大学教養部保健体育学教室に移った。また、役員の任期についても、会長、副会長、幹事の任期は2年から1年に改正され、会長は年次学会の開催地の会員のうちから選出されることとなり、年次学会の開催を中心に学会運営が行なわれる体制になった。その後1961年、第8回年次学会の評議員会で事務所を大阪地区に置くことになり、翌年には再び大阪学芸大学保健研究室に置くことになる。めまぐるしく変転した事務所の所在地であつたが、1964年の第11回年次学会で、事務所は会長のもとに置くこととなり、副会長、評議員および幹事は単年度毎に会長が委嘱することになった。以後、1981年の会則の全面改定まで、この方式が続き、少なくとも形の上では、学会運営のすべてが会長に任されることになった。
一方、学会誌については、設立当初の会則で、会誌の発刊と配布がうたわれていて、第1号から第3号まで毎年刊行されたが、200人前後の会員に対して発行をつづけることは財政的に無理であると判断され、休刊された。その後1962年、第9回年次学会で復活し第4号が刊行され、続いて翌年には第5号が刊行された。刊行を続けるべしとする主張も強かったが、会員組織も財政基盤も脆弱ななかでの学会誌の発行は、現実問題として年次学会の会長の負担を大きくし、年次学会の開催そのものすら危うくなるおそれもあって、刊行の継続は困難であった。そこで、これに代わるものとして「学会通信」が第11回年次学会の川畑会長の尽力で、編集発行され、以後、年3回の発行が続き、会員への情報誌として定着し、21世紀を迎えた2001(平成13)年9月には、100号が発行された。学会誌の方は、その後、1970年に第6号が作られ、そのなかに学会通信の16号も収められたが、財源がなく継続的な事業として定着させることは到底無理であるとして、会員に配布されないまま幻の会誌となり、以後、途絶えた。
ところで、この時期の前半、1967年の第14回年次学会までは、一般演題も30題を超える盛況で、しかもその過半数が学校現場からの報告であり、大学関係者の発表も、その大半は学校現場との共同研究の成果であった。学校医や学校薬剤師の会員もこの頃もっとも活発に参加し、声も大きかった。まさに百家争鳴の時代というべきであろうか。ところが、1968年の第15回年次学会以降、とくに京阪神以外の地方の開催では、極端な場合は一般演題の発表が10題にとどまる状態で、大半は大学関係者の研究発表となり、現場からの報告や問題提起は大幅に減った。この頃はちょうど大学紛争の熾烈な時期でもあり、その後遺症として、現場に無気力な若者の増えた時期でもあった。
年次学会の特別講演やシンポジウムの課題には、毎年の社会一般の動向を汲みとって、学校環境衛生、青少年非行、精神衛生あるいは心の健康づくり、体力問題、性教育、肥満とやせ、等々多彩な今日にも通用するテーマが会長の個性を強く反映して取り上げられてきた。また、「学校保健をいかに強化するか」「学校保健の動向と将来への示唆」「これからの養護教諭」「学校保健の組織活動における問題点」など、学校保健の本質を問うような提言も多くなされている。しかし、集まる学会員は200名前後で学会発足当時の参加者数とほとんど差のない状態であった。
学会事務所が1年ごとに移って、事務引継ぎも十分でなく、毎年の学会運営にあたる会長にとっては、会員名簿も整備されていないため、会費がどれだけ集まるかの予測も立たない。そこで、開催される府県や市の教育委員会からの補助金、関係団体からの援助金を得て学会開催の準備をし、関係企業の寄付金や広告料等の賛助金によって抄録集を印刷するような苦しい運営がなされてきた。とはいえ、結果的には会長の努力で、それぞれにユニークな企画の学会が開催されたことになるのだが、その成果が学校現場に反映され、還元されるものにはなり難かった。
これらの問題点の解決のために第22回年次学会の評議員会において、学会の組織運営を再検討するため、学会組織運営検討委員会が設置され、精力的な検討が重ねられて、第25回学会では基本的成案が提案され、承認された。これを受けてさらに会則改正の作業がすすめられ、第28回年次学会においてようやく今日の学会運営の基礎が確立されることになるのである。