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大島明雄博士を偲んで
大阪学芸大学 榊原 栄一
私が大島博士の知遇をえたのは昭和28年10月であった。それ以前に2〜3度お目にかかってはいたが、同業者の年長者で心臓の強い人だなアーと思った程度の無縁の人であった。
相知ることはまことに不可解なものである。私が教育系大学へ就職したと云うので、故渡辺三郎先生を中心とした数名のグループがK料亭で激労会を開いて下さった。その席へ現和歌山医大学長の市原 硬 先生と大島さんがヨー、ヨーと声をかけながら乱入された。これが縁の始まりである。細菌免疫学専攻の私は保健学が何であるか、ましてや保健教育が理解できていない時であったので、今反省して冷汗ものであるが、会話の途中、君の気分が気に入った。俺と兄弟分になれ、キスしてやろうと額にキスされたことを思出す。以来公私両面で面倒をみていただき、私にはえ難い理解者、協力者であった。大島さんの死がくやまれてならない。
大島さんは、学校保健学会にとっても無くてはならぬ功労者であった。殊に第4回近畿学校保健学会の当時、複雑な事情が重なって、学会が崩壊寸前の時に献身努力されて今日の発展に導いた立役者であった。努力家で、筋を重んじた情熱家の大島さん、当時の論議の中で、沈滞した空気を一掃せんと熱弁を揮い「風通しよくしようではないか」と大喝した。あの意気、小柄でクリクリした目と澄んだ瞳、胸を張り相手の目を凝視して論ずる熱意、呑込みが早く、誤りは誤りとして卒直に認める態度、腕を斜外向に振りながら歩く特徴、ヤァーと右手をあげてニッコリと挨拶する態度等々が眼底にこびりつき、脳裏を去来する。あの光景がみられなくなったことはうその様である。 大島さんは我が身を処すに極めて厳格であり、日々の生活は実に立派であった。ことに「今日最善を尽せば明日は死んでもよい」との言葉を最も愛し、常々口にし、生活の信条、座右の銘とされ、診療に研鑚を重ね医人として、且又保健教育の実践者として残した功績は極めて大きいものがある。
これから10年、この道に精進してもらいたかった事を願う人は私のみではなかろう。学会にとっては一つの支柱を失った感が深い。
激しい毎日でした。随分疲れたことでしよう。どうぞ安らかに眠って下さい。
――昭和41年8月10日 近畿学校保健学会通信 No.9 より――
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