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近畿学校保健学会への願い
大阪府学校保健会 長谷川 等
大阪市学校医会 大島 明雄
○ 学校保健の出発
昭和24年5月31日をもつて文部省体育局(当時 局長 東 俊郎氏)は廃止された。その内部はそれぞれ分散し他の局に帰属されて、保健課は「初等中等教育局」の「保健課」として移管された。
この事は日本の文部行政が発足(明治5年)以来80年の教育の歴史を通じて、ともすれば、学校教育のらち外におかれてきた「学校衛生」が初等中等教育局という文部行政の教育という主流の中に入れられたということは、全く革命的なことであって、「新しい学校保健」の出発として、当時学校衛生に情熱をささげてきた人たちはよろこんで張りきったものだった。
思えば、終戦直後の社会不安の対策として、昭和21〜22年にかけ「学校給食」が発足し、新教育計画の展開として、「学校体育指導要綱」や新制中学校の教科のなかに、永い間、体育科のかげにかくれていた健康教育を「保健体育科」として改訂して明確にし、続いて高等学校にも実施して、必修教科とした。「保健」の教科書の編集検定事務が始ったのも、昭和24年のことであった。もちろん体育局の廃止はGHQの強い主張によったものであろうが、あながち日本人体力の弱質化を狙ったものであるまい。というのは当時、臨時措置として「保健体育審議会令」が制定されて、その内部に学校保健、学校体育、社会体育、学校給食の四分科審議会を設置して各々の連絡協調を計ったことは次のよりよき機構つくりへの準備機関でもあったようである。
○ 学校保健はもともとWHOの精神を理念とした
このように中学・高等学校の保健の時間が決定されたのに従い、学校保健全般に対して、一般教師の保健の理解と向上を図る必要があるとして、司令部は米国より指導者をつれて来て、日本側教育代表を加えて委員会をつくり、「中等学校保健計画実施要領」(試案)をつくりあげて、昭和24年11月ひろく全国に伝達講習会を開催し、米人を交えて指導官を派遣した。最も重要な内容は、今までの不十分な健康観を是正して、特に“新しい健康観”の確立を「国連保健機構」(WHO)の保健憲章の主眼をもれなく採用して、総説としそれに@健康に適した学校環境、A健康に適した学校生活、B学校保健事業、C健康教育の四章を加えてつくられていた。しかもこの“環境”“行動”“主体管理”それに知的理解のための“学習”を総合的に相関連繋させることによって、“新しい健康観”のもとに健康育成を学校教育に位置づけようとした。つづいて「小学校保健計画実施要領」(試案)も完成されて昭和26年2月に伝達された。
“公立学校に学校医を置く”という勅令が出たのが明治31年(1898)だった。それから随分永い星霜がたっておる。学校における健康問題は主として教育の外側におかれていた学校医、学校歯科医、それに学校看護婦(養教の前身)たちの奉仕によって支えられて来たといってもよい。このことを単なる“名誉職”の言葉だけで酬いられるものでもあるまい。この「新しい学校保健」が従来の公衆衛生の「学校衝生」とどこがどう相違しているのかなどと、今更述べることはやぼなことである。只厚生省所管の保健所が学校における保健管理と保健指導についての“助言―援助―協力”を教育委員会法の改定によって判然と申し合せ、文部省と厚生省との所管事務の接触が軌道に乗り、学校保健行政の一元化が規定されたことはまことに画期的なことであった。
一人一人の子どもの健康の育成保持が果たされるためには、学校保健における管理と教育の統合一体的の実践が必要で、子どもたちの現在と将来の健康が保証されるためには、特に学校長と一般教師にその責任があることを強調されたことも事実であつた。当時、新教育としての生活教育、特に子どもの自主的能力を開発するという目標よりすれば、観念的の健康から実践的の健康生活を身につけるように指導せねばならないとされ、そのためには、いわゆる、学級、学校、地域を通じての保健自治活動を強化するよういろいろの方法を使って現場を指導したようであったが、地域的に可なりの落差があるようである。幸に、わが大阪府下では、大阪府教委と各地方教委と各郡市の学校保健関係者たちは20年近くも、非常な努力と周到な指導をつづけた。そして府下各地区に全国水準以上の学校保健活動の進展を見るようになった。特に「大阪府学校保健会」が主唱し、朝日新聞大阪本社が初めて採用した「健康優良学校」造りは、府下の学校経営のよき標準を示したことになり、その効果を挙げることとなったが後に文部省などの採用するところとなった。
思うに学校保健の発展は一・二の熱心な教職員があっても駄目である。全校あげて、地域をあげて理解協力するよりほかに学校保健の強化の方法はない。そして、教育現場の学校保健は保健技術職員を除けば他はすべて素人であった。われわれ保健職員にしても、進みに進む現代医学の新知識の修得は研修講習の機会なしには不可能であった。よって学校保健関係者たちは、これを各医学関係大学に求めた。しかしこのこともあまりに臨床医学や衛生学の臭いが強く、直ちに学校における健康教育には役に立たなかった。
○「日本学校保健会」と「日本学校保健学会」の関係
従来の学校衛生を支えて来たものは学校医たちであったことは前にも述べた。そして新しい学校保健の発足にも有力な原動力になったのも学校医と学校歯科医たちであり、その民間団体として「帝国学校衛生会」を結成して、目覚しい動きを示していたのもこの人達であつた。しかし終戦と同時に一応解散されたが、昭和22年「日本連合学校歯科医会」と民主的に合体し、文部省の外郭団体として「日本学校衛生会」を組織し再発足した。そして昭和22年10月「第一回学校衛生大会」を東京に、その後各地で開催された。なくなられた西〔起三郎〕先生、お元気な豊田〔順爾〕、伊賀〔政雄〕先生などはその功労者である。
新しい学校保健の理念に即して、子どもと教師を中心に、両親、更に地域社会を加えて、協調連合して、日本の子どもの心身の健康育成を企図しようというので、文部省の外郭団体として、創設されたのが現在の「財団法人日本学校保健会」である。そして各都道府県にその支部を置くことになった。もちろん、設立の主旨からいって、「学校」をもって組織単位とされたことはもちろんである。当府においては、いち早く「大阪学校衛生振興会(府市合同)」を設立して、その「大阪府支部」を代行した。昭和26年第一回全国学校保健大会が福岡に開催された際、東京都外五大市は政令都市であることと大都会の特殊性を理由として、それぞれ分離し独立した。そこで新しく若々しい「大阪府学校保健会」(私の会長時代に改称)が誕生した。こうして第二回(仙台)、第三回(高松)と全国大会は盛んになって来た。しかもその運営にも職域別的な分科会活動もあり、また領域別問題別な分科会のもち方もあったが、いつの場合にも学校保健の学問的な研究と学術的な指導がその裏づけとして要求されたことは当然であった。そのために「学術專門分科会」即ち大学関係者や研究団体の指導者の分科会が必らず同時に開催されていた。
そこで、文部省関係者(特に湯浅〔謹而〕、新井〔英夫〕、荷見〔秋次郎〕氏ら)はつとに、この分科会を独立させて学校保健の学術研究討議を目的とする学術学会をつくりたいと努力されていた。その事から当地では大阪学芸大と奈良学芸大の方々と計って「近畿学校保健学会」をつくり、昭和29年松江大会に臨んだ。そして、ここに初めて「日本学校保健学会」の第一回総会が開催されたように記憶している。従って「全国学校保健大会」と「日本学校保健学会総会」は出来るだけ近い、隣接の地で開催することが望まれていたことはこの「日本学校保健会」の必要性から「日本学校保健学会」が誕生したという経緯からすれば当然のことであった。
一般論的にいうなれば、学校保健学会は学校教育の現場の健康問題をとりあげて、学術的に究明し、その業績の結論を教育の現場で、実践できるようにしてやるのが本来の使命ではなかろうか。この頃の多くの医学会のように会員の業績発表それだけで事がすんだと考えるのは違っていると思う。それと「学校」の何かを借りて研究の手段としたり、「学校」のどこかで実験したというのみで、これが学校保健の研究だと考えてもらいたくない。只その業績がちょっとしたことにせよ、学校教育の一部として活用実践できるものにして頂かぬと価値はない。
この「学校保健会」と「学校保健学会」との関係は「公衆衛生協会」と「公衆衛生学会」との関連にもいえるのではないかと思う。現在の“保健所活動”と“学校保健活動”とは同様な立場におかれているのではないかと思っておる。ともあれ、「日本学校保健学会」は幾分、偏向傾向がないでもないが、まあその生立ちにとらわれず、更に学問的に堀りさげ、理論的に高水準の学理論を討議することにしてもよい。しかしせめても、地方学会の性格を多分にもつ「近畿学校保健学会」だけは、近畿二府四県三大市の各学校保健会の会員を手足まといになるとして、置き去りにされぬように! 願うことは教育の現場ですぐ役に立つような業績を現場会員に教授してもらいたいものである。
○ 「学校保健会」の構成について
この事は私ども仲間でも、どうかすると考え間違いをした向きもないでもないと思うので、ここに特に述べさせて頂く。@学校保健会の単位細胞は「学校」であること A児童生徒および幼児も、学校園長も一般教師も養護教諭も、それに学校医、学校歯科医および学校薬剤師も更にPTAもすべて単位会員であること B「学校」内では子どもを中心に学校保健委員会を作り活動し C一つ一つの学校では学校長・保健主事・養護教諭を任務別学校代表となし、学校医等は職能別学校代表、PTA委員は保護者代表として選出しこの代表が集って下部組織としての「地区学校保健会」を構成する。これが郡市より府県へと大きく構築されていく。Dそれぞれの学校保健会は部会組織をもって会の運営を営んでおること。E学校保健会はいつの場合でも、それぞれの教育委員会と直結しておること。従って、いわゆる既成の学校医会や学校歯科医会や学校薬剤師会が学校の養護教諭会や保健主事会などと連合して、「学校保健会」が結成されると、またそうして結成されたと考えるのは、「学校保健会」発足当時の仮りの姿であった。更にもっと古い学校衛生会時代の考え方であって、新しい学校保健の理念からすれば大変な間違いなのである。
そして、私たちは「日本学校保健会」の機構運営にも満足できないし、学校保健研究所の設立も唱えながら、その気配もない。「癌」「癌」と自分のことには熱心な大人は日本の子どものための国立の学校保健センターを願っても耳を傾けてくれない。
お願い:ながながと、判り切ったことをくどくどと述べましたが、実は去る2月20日、大島先生が旅先の大津市で突然に重症になられ、一時大津の日赤に世話になり、やっと帰宅、幸に経過まことに良好というので、25日お見舞した際、枕もとで話し合った内容なんです。どうせ、例の二人の愚見としてお読みすて下されば幸甚です。
――昭和41年3月10日 近畿学校保健学会通信 No.7より――
註:文中の人名のあとの〔 〕内の記載は編集委員会による補足である
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