近畿学校保健学会

AND OR   大文字と小文字を区別する  
ホーム
学会の目的・活動内容
会則/最新の学会通信
事務局からのお知らせ
次期学会について
入会ご希望の方へ
会員名簿
過去発表資料(表題検索)
学会通信(PDF検索)
50周年記念誌(表題検索)
リンク集
お問い合わせ


Powered by
kobe-u.com
 
 近畿学校保健学会へのそのときどきの想い 第 I 期
 

教え子など、みんなから敬愛された故圓山一郎先生の想い出
――「追悼 圓山一郎先生」より抜粋――

上延 富久治(大阪教育大学 名誉教授)
親子ほど歳の違う、小柄ではありますが大先生の故圓山一郎先生と私との出会い、そして親交は、大阪教育大学養護教諭養成所時代から逝去される数ケ月前まで続きました。先生は単刀直入に話されるご気性ゆえ、誤解する人も決して少なくなかったように思いますが、一面、少年のような純真無垢なご性格ゆえ、私としては非常に好感がもてたからです。
顧みますに、それでも、養成所時代に、ある人の名誉に係わることが原因で、先生が悪気があっての事ではないとは知りつつも大喧嘩したことがありますが、先生にまつわる傑作な想い出は、枚挙に遑がありません。しかし、それは良かれ悪しかれ一個人の視点からにすぎません。ところが、都合のよいことに、副題に示しました各界の100名に余る方々から寄せられた213頁からなる追悼文集が、今手元にあり、故人の面影を彷彿させるにはより多くの方々の追悼文を引用する方がよりrea1ityがあると思慮しました。
というわけで、全文読み直してみましたが、その過程で、字が読めなくなる程涙が滲み、?々中断せざるを得なくなる一方、面白おかしく笑いが止まらない程、それなりにいずれも故人を偲ぶ素晴らしい手向けの辞ばかりでした。が、紙面の都合もあり、幾人かの追悼文を順不同で抜粋したそれぞれの文中の主たる部分以外は、(中略)でカットしましたが、そのために生じる文脈の乱れを直す意味あいもあり、私なりの〔註〕を適宜加えました。なお、ご親族以外の氏名はすべてイニシャルで記しましたが、「氏」は男性を、「さん」は女性で、すべて敬称略にしました。
追悼文の編集を終えて 一郎先生がよくお使いになられたのは、奈良公園の柳茶屋であった。(中略)先生の思い出多いこの柳茶屋〔註:古来より多くの文人らに親しまれてきた純和風の料亭で、私も再三招かれたことがあります〕に、数人集まって一寸相談して欲しいという連絡を奥様の幸子先生〔註:奈良文化女子短大教授・M.D.〕から頂いて、顔を合わせたのは、ふくらむ桜の蕾が春雨に濡れる3月29日のことであった。(中略)これ〔註:追悼文集の編集のこと〕を終えて、初夏のひざしに目を移すとき、いまは亡き一郎先生の面影が、そうろうとしてそのなかに浮かんでくるのです。平成9年初夏追悼文集編集委員(M・T氏)
夫一郎の病歴 圓山幸子 私どもが結婚したのは、終戦後まだ日の浅い昭和22年5月でした。今年で丁度50年、金婚式を迎える筈でした。(中略)夫は、太平洋戦争が次第に熾烈を極めてきた時、現地〔註:京城 ― 現ソウル〕で召集され、ニューギニアに派遣されました。九死に一生を得て帰還。(中略)外科の手術のある前の日は、どんなにやり馴れた手術であっても、人間の体は機械とは違うから、どんなことが起こるかわからないと、夜遅くまで机に向かって、本を読み術式の研究をしておりました。(中略) 〔註:この後の文章で、先生が「英雄色を好む」などと嘯き、若い頃女性関係で家庭騒動となったことや、外科医の潔癖さから、気の済むまで延々と手洗いするなどの完全癖やその他の“異常癖"などで他人様にも迷惑をかけたこと等を、赤裸々に描写されております。また、昭和57年に直腸癌を患われた時、そのご性格から告知せず、それで良かったこと。更には、平成7年夏、猛暑からひどい脱水症状を来たし、危険な状態となり救急車で入院された様子など綿々と述懐されています。そして平成9年1月末、インフルエンザがもとで入院し、今回逝去されるに至る過程が詳細にしるされており、次の文章に続きます。〕注射も検査も嫌と云うので、強いてはやらず思うようにさせ、(中略)次第に弱って、苦しむこともなく最後は昏睡状態になって、静かに旅立ってゆきました。(中略)また、教え子たちには、沢山のバレンタインチョコレートで喜ばせてもらったり、入院中には千羽鶴や色紙で励ましてもらいました。〔註:「このことは美談として今も語り継がれている」と奈良文化女子短大名誉学長<A・H氏>も追悼文中に記されている。〕今振り返ってみて、幸せな一生であったのではないかと思います。
恩師・圓山一郎先生を悼む T・T氏 「先生が亡くなられた」とのお電話を奥様から頂いたとき、(中略)言いようのない寂しさが込み上げ、(中略)その思いは募るばかり、仕事に集中出来ない状態が、いまなお続いている。(中略)今日までお育て頂いた私にとって、先生の存在は“生きていくための道しるべ”であり、生き甲斐そのものであったと言える。(中略)〔註:国立秋田病院時代からの師弟関係で、先生が逝去されるまで最も信頼厚かった方。前奈良県医師会学校医部会長として活躍され、本学会評議員でもありますので、T.T先生に依頼する筈のところ、最近眼がご不自由とかで、山本・北村両先生<本学会奈良県幹事>と相談の上、結局私が珍追悼文を草することになりました。〕
先生の知られざる一面を紹介してみよう。その一つは、かつて終戦直後、昭和天皇が秋田行幸のみぎり、国立秋田病院に立ち寄られ、傷病兵士をご慰問になられたことがあった。その折、陛下から先生に何事かご下問があったが、先生はあまりの緊張に足が震い、後でなんとお答えしたか判らなかったと、折にふれて述懐されていた。もう一つは、昭和天皇ご崩御の後、偶々仲間内で集会の相談があり、先生をお誘いしたところ、「私はこの一年間喪に服すから」と言って断られたこともあった。〔註:これは先生の真摯なお人柄を示すエピソードで、偽りないお気持ちですが、私には「あんたと会う時は別や」と云われながらも、さすがにその年は会う回数も少なく、自ら二次会にクラブ等へは誘われなかったように記憶しております。〕(後略)(奈良市・竹田医院長)

 冒頭の略歴にありますように、それまでの30数年間に亘る外科医として活躍されてこられた経験と力量をその後の教育面に遺憾なく発揮され、優れた養護教諭や看護婦等の養成を目指して、まさに精根を傾倒されてこられた様子は、多くの教育関係者や教え子などから寄せられた追悼文からも如実に察せられます。また、昭和45年4月よりご退官されるまで、大阪府教育委員会から保健技師を委嘱され、府下の児童、生徒並びに教職員等の健康の保持増進のため尽力されてこられました。
一方、学校保健学会に関しても研究・運営両面においてその発展に尽力してこられた功績を称えられ昭和63年には本学会名誉会員に推挙されました。
先生は、前述のようにご在任中、学生に対する講義、ことに救急処置の実習は誠に厳しく、すべての学生がその知識と技能を完全に会得するまで徹底的に仕込まれ、そのお陰で学校現場に就職してから自信を持って事に臨むことができたと卒業生からよく耳にしております。また、先生は非常に人情味豊かな方でもあり、学生の信望と尊敬の念を一身に集められ、そのお人柄を慕って卒業後も公私に亘っていろいろと相談に訪れてくる彼女たちに親身になって接しておられました。
一昨年末の電話で「久しぶりに会いたいが、足腰が弱ってどうにも仕様がない」とのお声を拝聴したのが最後でした。ともあれ、追悼文集に寄せられたすべての方々が、異口同音にそのご逝去を心より悼んでおります。私としても同様、人品豊かな先生の笑顔が今もなお瞼に浮かんでまいります。先生のご冥福を心からお祈り申し上げ、謹んで哀悼の意を捧げます。
――平成10年8月31日 近畿学校保健学会通信 No.91より、一部抜粋――

近畿学校保健学会のホームへ
近畿学校保健学会事務所
〒657-8501 神戸市灘区鶴甲3-11 神戸大学発達科学部健康発達論講座
2004 © 近畿学校保健学会 All rights reserved.