近畿学校保健学会

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 近畿学校保健学会へのそのときどきの想い 第 I 期
 

会長挨拶に代えて
私の学校保健50年の歩み

第6回日本学校保健学会 会長
第6回近畿学校保健学会 会長
竹村  一

                                  (1)
 私が学校衛生にふみ出したのは、現阪大の前身である府立大阪医科大学3年生の学生時代からである。当時、同大学教授であった恩師木下東作先生の生理学教室に業室研究生としておいていただいた時に始まる。同博士が日本で最初の運動生理学を講ぜられた当時であって、今は故人になられたが阪大歯科の創始者である弓倉繁家博士や木下博士の後をつがれた中川知一博士達も皆同教室におられた。当時木下先生は「学校衛生なんかでは飯は食えんよ、しかし、誰も日本ではやる人がないから君がやるなら生涯をかけてやれ」と言って下さった。
 私は学生時代から学校衛生は、まず、幼稚園という教育の場から研究を始めて、小学校・中学校・高等学校・大学と順次進めて行きたいという夢をもっていた。大学の時間をさいては、江戸堀幼稚園の膳竹先生や、堂嶋小学校の岡村増太郎校長にいろいろと御世話になった。当時有名であった明石師範の及川平治先生の動的分団式の講義をききに行ったり、京都大学へ出向いて野上博士や楢崎博士に教えを受けたり、当時大阪医科大学図書館になかったマルチンの人類学の書物をかしてもらっては一生懸命に人体測定方法を学んだものであった。
 恩師木下先生の御指導で「大都会児童ノ成長ニ関スル統計的観察」の卒業論文を出して大正5年、大学を出た。
当時の日本の学校衛生はいわゆる明治期の医学的学校衛生とでもいう時代は過ぎて大正期にはいっていた。しかも、文部省の学校衛生課が明治36年廃止後、石原喜久太郎博士等を中心に再設置運動が遂に功を奏し、文部省学校衛生官として、当時、大阪衛生試験所長 北 豊吉氏が就任されるという話を、卒業謝恩会の席上聞いたのであった。翌6年再び文部省に学校衛生課が出来、 北 博士が課長になった。
 大正8年には古瀬安俊博士の「学校衛生」、石原喜久太郎博士の「石原学校衛生」、北 豊吉博士の「学校衛生概論」が世に出た。
 大正13年には、文部省は地方学校衛生職員制を公布して学校衛生技師を道府県に各一名の定員配置した。長崎に鮫島、福岡に松本、熊本に土井、鹿児島に山田、広島に浜田、大阪に皆吉、兵庫に渡辺、静岡に村山、山形に高橋、富山に森田の諸君が本省直属の地方技師として活躍されたのも当時である。私にも文部省や地方庁の学校衛生技師にといって招聘されたが、木下先生は御承諾下さらなかった。
 私は、学校衛生は、教育の場でなさるる教育行動でなければならぬと考えてまず学校衛生をやるには、教育学、心理学、哲学等について学ぶ必要を痛感した。そこで樟蔭女子専門学校講師に就職して家政科の育児学の講義を担当しながら、恩師伊賀駒吉郎先生に前記の講義を3年生の学生と机を並べて数年間聴講した。今日、私の持論である「教育としての学校衛生」即健康教育は、当時同先生によって教えられた教育学に負う所が多い。
同専門学校には中学校が附設されてあったので中等学校教諭の免許状をもらって、中学校の教壇生活が始まった。数年後高等学校が出来てからは高等学校にも教鞭をとり、更に同校並びにその姉妹校である樟蔭東学園にも勤務して、40年講師や学校医として教壇生活を通じての学校衛生をひた向きに走りつづけた。
大正期に於ける学校衛生の特色は何といっても今日の給食事業の開始、学校看護婦の設置、歯科診療、虚弱児童の養護等々の社会的学校衛生時代である。
 大正15年1月恩師石原 修 博士が大阪医科大学教授に任官、衛生学教室が創設せられた。同年5月私は先生の下に卒業後十年教育として学んだ学校衛生について更に研究を進めることに志し同教室に入った。石原先生御夫妻にはそれ以来20有余年先生御逝去の日まで公私一方ならぬ教導にあずかり御恩を受けた。
私の学位論文である「学校生活に対する衛生学的研究」も同教授の御指導の賜である。二代目主任教授の梶原博士の御厚意の下に昭和24年3月まで講師の席を与えられて一途学校衛生の道を歩みつづけた。
昭和24年4月大阪府立浪速大学が開設せらるるにあたって当時の教育学部長恩師福山重一博士は、私の教育としての学校衛生の所論を如何にして知っておられたかは私はいまだお尋ねした事はないが、博士は私の多年の宿願であった医学畑から教育畑にうつりたい念願をかなえて下さって教育畑にうつしかえられた。此の事は私の生涯を通しての転期であり、念願成就の事実であり、同博士に負う所誠に大いなるものがある。私としては同博士も終生忘るる事の出来ない恩師の一人である。
 その後、神戸大学教育学部に招かれてここに10年、保健科にて日本の健康教育担当教師の養成並びに家庭科に於ける育児学の講義を担当今日に到ったのである。
この神戸大学勤務10年の間に附属小学校長、附属中学校長も併任した。
私は学校衛生の一路を真直ぐに走りつづけて50年をすぎた。この間に幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学と各々その教壇生活を経て黒板とチョークの生活を送って来た。医学を基礎として更に教育学、心理学、哲学を学び、実地に教師として生き、小・中学校長を経て更に日本の健康教育者養成大学に学生を指導し、私の学生時代に誓願を立てた「初一念」を遂に通して来たのである。
これは全く恩師各先生の御指導の賜であり、又同僚諸君の奨励の賜であると深く感謝をする次第である。

                                  (2)
 こうした私の50年の歩みを顧みて、誠にお恥しい次第であるが何等斯界に貢献した特記に価いするものはない。しかし一つ二つの追憶をここで述べさせていただきたい。

 第一に言いたいことは、私の最初からの発願である、学校衛生というものは医学的研究業績を資料として教師及びこどもの健康への教育でなければならぬということである。
 このことはいいかえれば、学校衛生を動的に考えてみれば健康教育であるということである。昭和15年つづいて16年と2回に亘って「本邦学校衛生の更新に就いて提唱す」、「再び学校衛生の方向転換を論ず」という論文を発表した。
 当時、文部省学校衛生官に大西永次郎君がおられた。同君は日本に於ける学校衛生を今日に到らしめた為には忘れる事の出来ない恩人である。殊に社会的学校衛生、教育的学校衛生の推進には多大の貢献をなされた人であって現在も岡山市に開業されて御健在と聞いている。同氏は官に私は野に互いに親交を持ち乍ら論争をつづけたものであった。
 昭和9年「教育としての学校衛生」を世に問い、学校に於ける健康教育を提唱した。大西学校衛生官は之に強く賛意を示されて同年2月21日発行の官報2140号に私の論文を載せられた。かくて各地で「教育としての学校衛生」という言葉が流行した。昭和13年従来発表した私の所論を集めて「教育としての学校衛生」と題して出版した。僅か一年足らずの間に第3版まで増版したうれしい思い出もある。
 かくして学校衛生は学校医、学校歯科医の仕事だと考えられていたものを、教師自身になすべき健康教育であると方向転換を指示した。

 第二は、以上の所論から、学校衛生は学校長の管理下にある教育であり、学校看護婦もまた教師としての位置にすべきであるとして、学校看護婦を教官にすべきだと叫んだ(昭和7年第4回日本全国学校看護婦大会講演)。その後、学校看護婦諸姉を初め学校医諸君、更にいろいろの団体によって、年々歳々要望に、請願に、建議に幾年かの歳月を経た。かくして昭和16年3月遂に「養護訓導」が生れ、昭和23年養護教諭となった。この事は前記昭和7年3月の大会で「学校衛生の本質に就いて」と題して講演をした際、健康教育の重要性を述べて学校看護婦も健康教育者として育成すべきことを強調した。
 私はこの提案に対してそれ以来学校看護婦諸姉と随分苦労を共にしたことであった。或時は文部省体育局の保健課長の卓をたたいて論議したこともあった。「学校看護婦は看護婦だよ。それを君が教師にしなければいかぬとやかましくいうから彼女達もさわぐんだ」と叱られた事もあった。現在、私は日本国中津々浦々何処へ行っても「養教のお父さん」といって迎えてくれる厚意もこうした過去の苦難時代を共にしたからである。ともあれ学校看護婦を養護教諭とし「健康への教育者」として教育の一元化を企図したことは忘れられない事実である。
 日本独特の養護教諭としての「健康への教育者」はかくして誕生した。

 第三は日本の学校衛生変遷の第3期ともいうべき教育的学校衛生に於ての保健学習の問題である。昭和4年学校衛生官大西永次郎氏は「衛生訓練の実際としての学年配当要目」を、同11年に「教育的学校衛生」を出版された。昭和13年前後は米のターナー氏中心の健康教育に於ける保健学習が盛んに唱えられた。私は最初から健康教育に於ける保健学習は理科的な教授や衛生講話式のものでもない、或いは体育でもないと随分喧しく唱えて来た。昭和13年10月24日から4日間広島高師附属小学校に於いて開催された「健康教育協議会」の模様を当時広島高師の雑誌「学校教育」の臨時増刊「皇国日本健康教育の指標」に掲載された。その協議会の発表に対しても同様反論した(学童の保健 第10巻10号)。
 終戦後、学校衛生は学校保健と名称が変ったが、保健学習には有名な13単元が文部省から出された。私は戦前からも引きつづいてこの生理衛生を主とした理科の様な保健学習に対して痛烈に反対しつづけた。
拙著「新学校衛生と健康教育」を昭和24年に出版して、数多くの教育学、心理学、哲学の各先生の著書を引用し乍ら、保健学習は理科的な生理衛生の教授による系統的教科学習でなくて、経験の糸をつらねた生活学習であり、知性を働かして問題解決による習慣形成でなくてはならぬ事を強調した。
健康教育は生命は尊重すべきであるという自覚に基づいてつまれてゆく健康の実践生活でなければならない。健康とは条件の集合によって、考察されたものではなく、生命伸展過程に於ける生命表現様相になづけられたものである。この私の健康の本質論に基づき自然的、人間的、文化的環境が単なる「認識の対象」としての存在ではなく主体と環境との緊張関係としての生活経験としてのものであり、その関係は「行動の抵抗」として考えらるべく、かくして健康生活に対する能力を養い、知識を活用して叡知的な行為的(態度)行動の形成でなければならないというのが私の持論である。
 それ故保健学習はやがて役に立つであろうという可能性の領域よりも、今さしせまって必要であるという必然性の領域に関係深く考えてゆきたいのである。昭和31年の改訂によって、やや生活中心の単元が示されてよろこんでいたが、今回又再び元の系統的教科学習或は保健教授という形体に還元された様にみえる。出来得るならばこの基底単元は各地域によって各学校で生活経験によるカリキュラム構成がなされて、その中に織り込まれた単元である様な取扱いをしたいものである。
 要するに健康教育に於ける保健学習はどこまでも生活学習の型に於てあるべきである。

 私の学校保健50年の間にこれという足跡も残さないが、
 1) 学校衛生は健康の教育であるということ。
 2) 養護教諭の育成に努力した。
 3) 健康学習は生活学習であるべきである。
という三つは私の主張である。

 ここで今日、この総会に於いて、私の学校衛生一路を歩みつづけて来た過去50年を顧みて、学校衛生の進歩は誠に遅々たる観がある。何故であろうか。これは今後に課せられた問題であり今後方向づけねばならない重要点である。これについて一、二の所感をのべてみたい。 

(1) 学校保健を真に教育として建ち上らせる為には、学校保健は、小児科の領域或いは生理衛生学の範囲、単なる環境衛生等から脱皮して、真に教育の畑に育った健康教育でなければならない。その為には最初からその生涯をこの健康教育に捧げた教育畑の同志が生まれることである。

(2) 生命の尊重を自覚し、その自覚の上に健康生活を実践し、社会に何かを貢献し、長寿を全うする人間育成は、単なる保健教授による知識の集積ではむつかしく、やはり地域社会に起る問題を解決し、健康習慣の形成を計らねばならぬ。その為には生活による学習形態を取るべき研究が必要である。

(3) 健康教育の為には特に重要な位置を占める養護教官の健康教育者としての今後一層の進歩向上を計るべきである。

(4) 最早日本の学校保健は一応その行政の面ではまとまったといってもよい。唯、教師とこども達は未だ健康生活が身についているとはいいえない。今後は、この為に健康教育、安全教育等が実際生活に如何に結びつくかが大きな問題である。


――第6回日本学校保健学会総会抄録集I 演説要旨より――

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