第4回【文窓賞】 学生レポートコンテスト 結果発表
最優秀賞 (表彰状と賞金10万円)
「強烈なインド、初めてのバックパッカー」 森田 祐未(英米文学専修3回生)
インド旅行の体験記は、このような感想、結論が多く独自性に欠けるとの意見もあったが、生と死に対する作者の意識の変革は高く評価された。特にボートマンから学んだことを忘れずに生きていって欲しい。
優秀賞 (表彰状と賞金3万円)
「オーストリアでアルバイト経験」 原田 沙耶(社会学専修4回生)
単なる留学では学ぶことが出来ない、日本文化を紹介する喜びとアルバイトで得たいろいろな体験。作者の感受性は若者らしく、多くの選考委員の共感を得た。
「文学部生としての意地」 谷本 響司(人文学科1回生)
文学部で学ぶ誇りを持って、時代そのものを変えるような考えを、社会に提案をするため、勉学に励みたいという作者への拍手は大きかった。選考委員全員が今後の活躍を期待している。
「普段接する機会がない人と出会って」 三宅 陽平(哲学専修4回生)
何事にも消極的な若者が増えるなか、日本が直面する諸問題に自ら飛び込み、奔走する作者のチャレンジ精神は素晴らしく、文窓会の誇りである。
佳 作 (図書券5,000円相当)
「父と野球、僕の決断」 姉川 拓生(人文学科1回生)
「今、重なる~識字教室体験談~」 和木 友絵(人文学科1回生)
*優秀作の表彰は10月30日の第5回文学部ホームカミングデイにて行います。
*入賞者の受賞レポートは冊子にして同日の文窓会総会時に配布いたします。
・・・・・・・選考を終えて・・・・・・
昨年は就職活動に関するレポートが多かったため、本年から1・2年生も応募できるようにした。その結果、応募数が増えただけでなく、作品のモチーフも広がり、読み応えのあるレポートが多く、内容も充実していた。特に1年生の作品は高く評価され、文窓賞の可能性を大きくした。(総括・受賞作へのコメント 審査委員長 日高 健一)
◎選考基準:元気で個性的な学生生活の独創性や発展性に対する評価と、その活動や体験が社会をどれだけ納得させる力があるかによって選考。
◎選考委員
釜谷 武志学部長(中国・韓国文学教授)
鈴木 義和(国文学教授)
緒形 康(東洋史学教授)
日高 健一
池上 淑子
鞍井 修一
花木 直彦
廣野 幸夫
西川 京子
武藤 美也子
田中 睦子
最優秀賞受賞作品 「強烈なインド、初めてのバックパッカー」
「強烈なインド、初めてのバックパッカー」
森田 祐未(英米文学専修3回生)
なぜこんなにも私の心を掴んで離さないのか、と思わず自問したくなるくらい、五ヶ月前のインドへの旅は、未だに私の心の多くの部分を占めている。表題でインドを「強烈なインド」と言い表したが、これがもう本当に、強烈だったのだ。海外旅行は初めてではないが、ツアーではないバックパッカーとしての旅は初めてだった。ちなみに一人旅ではなく、気心の知れた相方との二人旅である。インドを訪れたのは2010年3月1日~7日。たった一週間、されど一週間。正直、しんどかった。このしんどさは、身体の疲労だけではない。まるでルールがない交通、インチキなインド人に対する不信感、目が覚めると知らない人が勝手に寝床にいるという寝台列車での怖さなど、原因は様々である。だが勿論、疲れただけではない。旅の中で楽しいことも笑うことも多かった。そして、命についてたくさん考えることがあった。今回のレポートでは、その命について感じたことを軸に、インドの旅を振り返ってみる。
まず、どうしてインドなのかと問われることがしばしばあるが、インドへ行こうと思い立ったのは、高校生のときに世界史の教科書で見た世界遺産のタージ・マハルに魅了されたことがきっかけだった。真っ青な空と対照的な、真っ白な大理石のタージ・マハルは、一緒に写真に映る人間がとても小さく見える程の壮大な愛の墓石である。その左右対称の美しい姿に見惚れてしまった私は、3年間タージ・マハルへの憧憬を胸に秘めてきた。そして遂にインドへ赴き、タージ・マハルをこの目で見ることが出来た。思った通りの美しい姿でタージ・マハルは私の眼前に現れた。しかしインドの旅を振り返ってみると、不思議なことに、タージ・マハルはあまり心に残っていない。なぜならインド人、インドの町、インドの交通、インドのトイレなど、とにかくインドでの日常そのものがとても強烈で、インパクトが強かったからだ。
今回の旅ではデリー、アグラ、バナーラス、コルカタの4都市を訪れた。その中でも特に印象的だった町がバナーラスで、この町はガンガー(ガンジス川)沿いに位置する。このガンガーが、バナーラスの最大の魅力である。ガンガーそのものが、神格化された女神として崇められており、ヒンドゥー教徒の信仰によれば、ガンガーの聖なる水で沐浴すれば全ての罪は浄められ、ここで死に、遺灰がガンガーに流されれば、輪廻からの解脱を得ると信じられている。年間百万人を越える巡礼者が訪れ、中にはここで死ぬことさえ目的にしている人々もいる。
ところで、今までにも軽く触れていたが、インドの交通は本当に危ない。まず車線がなく、道路には歩行者、自転車、サイクルリクーシャ(自転車のタクシー)、オートリクーシャ(バイクのタクシー)、バイク、車、さらに牛が入り乱れている。そしてそれぞれが少しでも道路の中で隙間を見つけると、けたたましいクラクションを鳴らしてどんどん間に分け入ってくる。そのためインドの町は喧騒に包まれている。しかしそのような喧騒を忘れてしまうほど、ガンガーは雄大で、全てを静かに呑みこんでいた。私はガート(川岸に設置された階段)に出て初めてガンガーを目にしたとき、何も言葉を発することが出来なくなってしまった。自分はなんて小さいのだろう、と思った。しかしその感情は決して悲観的なものではない。人にはその人なりの人生があって、何が正解でも不正解でもない。だがやはり生きているとそれなりに悩むこともあるし嫌なこともある。私がガンガーを見たとき、それらを全てガンガーが受け止めてくれた気がしたのだ。たとえ抱えている悩みごとが自分の中で多くの比重を占めていたとしても、あの雄大なガンガーの前では、大したことではないな、と思うことができるのだ。
ガンガーは、そのように人々の想いを呑みこんでくれるようだが、呑みこんでいるのはそれだけではない。ガンガーには火葬場が二ヶ所ある。火葬の方法は、布に包まれた遺体を一度ガンガーに浸してから薪の上に載せ、喪主が火を付ける。燃え上がる焚き火と煙の中で遺体はやがて形を失い、灰になってガンガーに流され、後には何も残らなくなってその人は一生を終える。いや、生を終えるだけではなく、輪廻さえをも抜け出すと信じられている。やがて全てを呑みこんだガンガーは、何事もなかった様に悠然と流れ続け、海へ注ぎ、天へと昇る。どうだろう、このようにガンガーの雄大さを考えると、自分の小ささを実感しないだろうか。バナーラスで過ごしたとき、私は大きなガンガーに包まれていた。大地のことを「母なる大地」と呼ぶことがあるが、ガンガーも「母なる川」であると感じた。
ところで、私はバナーラスで1人のボートマンに出会った。彼の名はサンジェイと言う。私がガートでガンガーを眺めていると、サンジェイがボートに乗るように声をかけてきた。そして彼のボートに乗ってガンガーを渡った。サンジェイとはその20分間程度しか会っていない。しかし今、彼がどうしているのかが気に掛かる。サンジェイは骨のように細かった。サンジェイだけではなく、インド人の中には今にも折れてしまいそうなほど細い人が多くいた。サンジェイは骨のような腕で必死にボートを漕いでいたし、あるサイクルリクーシャの人は後ろに乗客を乗せ、オートリクーシャや車のクラクションを浴びながらも骨のような足で必死に自転車をこいでいた。しかし、そんな彼らとは対照的な人たちもいた。例えばシルク製品を売る人だ。シルクは高級で、特に観光客にはインドの物価からするとかなり高く売ることが出来る。そのために裕福なのだと思うが、驚いたのはその人の大きく出たお腹の肉だ。いわゆる「メタボ腹」である。もちろん貧富の差はどこにでもあるし、カースト制が古くから根付いているインドではそのような差があることが当然なのかもしれないが、それでも突き出たお腹と、骨のような身体のあまりの差に驚いてしまった。サンジェイやサイクルリクーシャの人は、骨のような身体でボートや自転車を必死にこいでいるが、こいだ先には一体何があるのだろうか。何故こぐのだろうか。それをとても考えさせられた。彼らが何をどう思っているのかは他人には決して分かることはないが、私が感じたのは、彼らは今を生きることに対してとてもまっすぐであるということだ。彼らがボートや自転車をこいでお金をもらうことはすなわち、生きることと一緒である。生活をするために、生きるために働くというのは当たり前のことだが、まだ学生であり、扶養してもらっているという恵まれた環境で生きる私には、そのありがたさが当たり前になりすぎていた。こいだ先には何があるのか、何故こぐのか。この問いに導き出した答えは、端的に言うとこうだ。「こがなければ死ぬから、こぐ」。
バナーラスを去りコルカタへ向かうために乗った寝台列車の所要時間は13時間ほどだった。列車の中で時間を持て余した私は、持参したある本を読んでいた。それは伊坂幸太郎著の『終末のフール』である。「八年後に小惑星が衝突し、地球は滅亡する。そう予告されてから五年が過ぎた頃。当初は絶望からパニックに陥った世界も、いまや平穏な小康状態にある。(略)余命三年という時間の中で人生を見つめ直す。(略)はたして終末を前にした人間にとっての幸福とは?今日を生きることの意味を知る物語」(集英社文庫『終末のフール』裏表紙より引用)この物語の中で、キックボクシング選手、苗場が登場する。苗場は世界が滅ぶと分かっている状況でも、ジムで毎日かかさず練習をしている。そんな苗場がずっと前に映画俳優と対談をしていた。そこで苗場は、「明日死ぬと言われたらどうするか。」という質問に対し、「変わらない。」と答える。「自分にできるのはローキックと左フックしかないから。」と。俳優に「明日死ぬのにそんなことをするわけ、可笑しいなあ」と言われると、「明日死ぬとしたら生き方が変わるのか。」、「あなたの今の生き方は、どれくらい生きるつもりの生き方なのか。」と逆に質問をする。(集英社文庫『終末のフール』の『鋼鉄のウール』より)
この苗場の言葉は私の心に深く染み込んだ。明日死ぬと言われたらきっと私は取り乱してしまうだろう。しかしそれは、自分はまだまだ生き続けるという根拠のない自信を前提にして生きているからなのだと気がついた。私は普段死の存在を全く意識していない上に死は遠いものだと思っている。しかしよく考えてみると、生と死は隣り合わせであるし、死はいつ訪れるか分からない。それゆえ苗場の言葉にハッとさせられた。特に生と死が密接状態にあるバナーラスを訪れた後だったので、この言葉が余計に心に響いた。バナーラスで会ったサンジェイは、生きることにまっすぐだった。だから明日死んでも悔いのない人生を送っていると思う。サンジェイは地球が滅亡するといわれても、ボートをこぎ続けるような気がする。そして私の記憶の中のサンジェイやサイクルリクーシャの人の背中から、「もっと真剣に生きろ。」という叱咤の声が聞こえてくるような気がする。
インドに行って何かを得よう、何かすごい経験をしよう、それこそ「価値観が変わる」思いをしようと模索した。何が変わったか。死に対する意識と、生を全うしようという気持ち、これは大きな収穫だった。そして、バックパッカーのおもしろさを知った。”funny”ではなく、”interesting”なおもしろさだ。ツアーでは何事も団体で行動し、移動もバスを使う。でもそれでは気付かないことがたくさんあるのだ。バックパッカーをしていなければサンジェイに会うことは出来なかったかもしれないし、サイクルリクーシャに乗ることもなかったかもしれない。短い期間ではあったが、インドという国に溶け込んだこの一週間の経験は、これからも私の財産であり続けるだろう。
優秀賞受賞作品 「オーストリアでアルバイト経験」
「オーストリア でアルバイト体験」
原田 沙耶(社会学専修4回生)
私が初めてグラーツを訪れたのは、2008年の夏だった。大学で第二外国語として選択していたドイツ語の勉強がおもしろくなってきた頃、オーストリアでのドイツ語学研修があるという話を聞いて参加したことがきっかけだった。期間は約3週間で、決して長かったとは言えないが、毎日他の国からやってきた留学生達と共にドイツ語を学び、時間があればグラーツを散策し、ウィーンにも足を延ばしたりと、異国での生活は私にとって非常に刺激的だった。中でも、ちょうど私たちと同じく語学研修に参加し、交換留学生として1年または半年間、グラーツで勉強することになっていた日本人の先輩方と知り合い、日々熱心にドイツ語を勉強し、様々なイベントに活動的に参加して人脈を広げ、どんどんグラーツという地に馴染んで留学生活を楽しんでいる様子を見て、「私も留学したい」という強い気持ちが起こった。1年という期間の留学は予定していなかったし、以前は留学するならもちろん英語圏で!と考えていたが、語学研修後、ヨーロッパという様々な民族と言語・文化が共生する歴史ある土地、そして英語ほど馴染みのないドイツ語圏での生活への関心が高くなり、まだ出会ったことのない価値観や文化を知り、日本をより深く知り新たな物の見方を身につける機会になると考え、グラーツでの交換留学へ応募することとなった。
このような経緯で、私はグラーツで留学生活を送ることになった。今年7月に帰ってくるまでの約1年の間に経験したことは数え切れず、自分自身まだ整理しきれていないのだが、楽しかったことも落ち込んだことも、すて貴重な体験だったと思っている。しかし、その中で非常に思い出深く心に残っていると言えるものがある。グラーツでの留学生活中に偶然にもさせていただくことのできた2つの「アルバイト」体験である。
1つ目のアルバイトとの出会いは突然で全く予期せぬものだった。大学のドイツ語での授業に四苦八苦しながらも、友人もできグラーツでの生活にも慣れてきた11月頃、グラーツでJAPANWEEK(ジャパンウィーク)というイベントが行われることになった。ジャパンウィークとは、財団法人国際親善協会が主催している国際文化交流事業で、日本文化を舞台公演や展示、交流会を通して紹介し、開催地の国の人々との友好を深め、相互理解を図ることを目的としている。毎年主に欧米の都市で開催されており、2009年度の開催地がオーストリアはグラーツだったのである。和太鼓や邦楽の演奏、着物ショーなどの舞台公演、茶道や華道の実演など、イベント内容は様々な分野に渡っており、日本から多くの団体が参加していた。このイベントに、私は現地に住む日本人留学生として、お手伝いをさせていただくことになったのだ。しかし、正直に言えば、手伝いとして働いて欲しいとの要請が来た時、国際交流イベントに参加できることは素直に嬉しく楽しみに思ったのだが、このイベントにグラーツの人々が興味があり参加してくれるかについては半信半疑であった。というのも、グラーツに住んでいる日本人は少なく、フランスやスペインでは比較的日本のテレビアニメが親しまれているがオーストリアではそうでもなく、日本のサブカルチャーもほとんど浸透している感もなかったため、日本に興味のある人々が多くいるとは思えなかったからである。加えて、ドイツ語がまだまだ身に付いていなかった私は、参加してくれた人にきちんと日本文化を伝えることができるのかが心配だった。このような不安を持ちつつも、ジャパンウィークは始まり、私は書道、折り紙や日本玩具の実演のコーナーで、足を運んでくれた人の名前を漢字やひらがな・カタカナになおして書いたり、折り紙の折り方を一緒に折って数えたりする担当となった。緊張しつつ、開催場所まで行ってみて私はとても驚かされた。想像していたよりもずっと多くの人が、参加していたのである。小さな子どもたちからお年寄りの方まで、様々な年代の人々が訪れ、これは何か、あれはどのように使うのか、と日本文化に興味津々だったのだ。私が担当していた書道のコーナーでは、是非家に飾るから、家族に送りたいから、と何枚も名前を書くようにお願いされ、一生分の書道をしたと思うくらいの枚数の紙を使った。私も最初は緊張していたが、日本の文化や文字、字の意味などについて積極的に質問をしてくれるオーストリア人の方と接するうちに、日本についてもっと知ってほしい、日本をもっと好きになってほしいという気持になり、私も楽しく働くことができた。折り紙に慣れない子供たちやお年寄りの方に、細かな折り方を説明するのはかなり難しく、折り方が分からなくなった子供たちに囲まれて手伝いをせがまれたりして大変だったが、折り紙1つで日本の文化に触れてもらうことができ、現地の人とこんなにも楽しく交流ができるのだなあと、国際文化の交流はずっと簡単にできるものなのだと感じた。
ジャパンウィークが開催された1週間の間、和太鼓や琴、日本舞踊などの舞台公演、互いの国の料理での交流会、学校訪問、音楽交流フェスティバルなどが催されたが、公演は大盛況だったし、交流会などでは直接日本人とオーストリア人が触れ合い、互いの文化をより近くで感じることができたようだ。ジャパンウィークに参加したことで、私は自分でも日本と日本文化について改めて知ることができた部分が多かったし、自分ももっと文化を異国に伝えたいと思うようになった。また、ジャパンウィークという事業を支え、実行している方々と知り合っていく中で、「日本文化を伝え、他国との交流を深める」という目的の下、多くの人が集まり様々な形で参加して、1つのプロジェクトが作り上げられていくのを目の当たりにした。どんな行事でも、それを作るのは人であり、それを支えていくのも、それに参加し、有意義なものにしていくのも人なのだと改めて感じることができた。期間は短かったが、ジャパンウィークで国際交流の面白さやプロジェクトに関わる多くの人の存在の大切さを実感できた。そして、グラーツの人々の日本や日本文化への興味や認知度が高まったと感じて、日本人として誇らしかった。
ジャパンウィークに続いて、私がオーストリアで2つめのアルバイトを経験することになったのは、年が明けてテスト勉強に追われていた1月頃からだった。グラーツには、いくつか日本料理店とされるレストランがあるのだが、その中で唯一日本人がやっている日本料理店で働いてみないかという話をいただいたのだ。ここでもやはり、ドイツ語が未熟な自分に、飲食店で働くなどできないのでは、という不安はあったが、日本料理店ならば、日本食についての質問も答えられるであろうし、何より自分の成長につながると考え、働き始めた。日本人オーナーとオーストリア人の奥さん、アルバイト仲間の学生の人達から、いろいろと教えていただき、また日本での飲食店アルバイトの経験もあったため、案外すぐに慣れることができた。しかし、やはり異国でのアルバイト。日本とは違う部分に驚かされることが多かった。例えば、接客である。日本での接客といえば、お客様に対して常に気を配り、お客様の満足のために言葉づかいやふるまいなどには丁寧さを心がけていた。しかし、あちらでの接客は、働いている人と客との距離感をあまり感じなかった。というのも、お客さんへの接客時にあまり改まった敬語を使わなかったからである。ドイツ語にも敬語にあたる丁寧な言葉遣いはもちろんあるのだが、日本の入り組んだ敬語と比較すればかなりフランクな印象なのだ。そのため、最初は、お客さんに対してもっと丁寧な言葉で接した方がいいのではないかとまごついていた。けれども、頻繁にお店へやってきてはオーナーとお喋りをして帰っていく常連の方も、普通のお客さんも、皆とても気軽に、日本のことや日本語での挨拶などについて質問を投げかけてくるので、接客以上の会話を私自身も楽しむことができるようになった。ドイツ語で接客を始めて気付いたのだが、接客だけでなく、大学の授業中に頻繁に行われる教授と学生による問答や、銀行や飲食店での上司と部下の会話を聞いても、日本ほど丁寧な敬語を使わないため、ドイツ語での会話では上下関係がほとんど感じられないのだ。これは上下関係に対して日本ほど意識されておらず、人間関係の在り方や重視するものが違うということを表しているのだろうと思った。日本人のお客さんが来た時には、私は使わずに忘れかけていた敬語を必死で思い出さなければならず、やはり文化と言葉は互いに強く結びついているのだと実感した。また、お客さんの食べ方にも色々と驚かされた。緑茶と一緒にレモン汁を注文する人、味噌汁に醤油をいれて飲む人、前菜としてうどんやラーメンを頼みスープだけ飲む人など、これが数人だけという訳ではなくかなりの数だったから、本当に驚くばかりだった。けれど、そんなお客さんの珍行動でも、オーストリアの食生活について考えるきっかけになった。例えば緑茶にレモン汁を入れたのは、水やソーダ水にレモン汁を入れて飲むことが多いため、緑茶も同じようにしてしまったのではないか。オーストリア、というよりヨーロッパでは砂糖を多めに使った甘辛い料理がほとんどなく、基本的には塩けの強い味付けのものが多いため味噌汁にも醤油を足したのではないか。あちらでは大抵スープは最初に飲むことが食事の順番となっているから、汁物のメニューにあったうどんなどもスープとして飲んでしまったのではないか、などお客さんの食べ方を見て自分なりに考えたり、お客さんの話を聞くことで、オーストリアやヨーロッパの食文化に触れることができ、非常に面白かった。慣れないチップ文化で、会計に時間がかかったり、バイト仲間のオーストリア人との意思疎通が上手くいかず、仕事でのミスに繋がってしまうなど、難しいことはたくさんあったけれども、アルバイトの仕事を通して、オーストリアの新たな発見をすることができたと思う。
私が働かせていただいたこのお店は、グラーツでオーストリア人に本物の日本食を提供する料理店でもあり、現地の日本人が集う憩いの場でもあった。開店から約10年ということもあり、現地の日本人はほとんどオーナーと顔なじみで、時折お酒を片手に夜遅くまでオーナーと様々な話をしていた。現地の生活での楽しいことはもちろん、辛いこと、仕事での苦労、将来への不安など、海外で生活することを選んだ日本人の人達が現在の生活をどのように過ごし、どのように感じているのかを直接聞くことができた。留学とは違う、海外での生活の良さ、大変さについて改めて考えさせられた。アルバイトを通じて知り合った方から聞くことのできた話は、今後の私が生きていく上で参考にしていきたいと思う。
私は留学前に、グラーツで働くという体験ができるとは夢にも思っていなかった。けれど、偶然にも、1年の留学期間中にジャパンウィーク、そして日本料理店で働くという2つもの機会に恵まれた。大学での勉強とはまた違った社会勉強もさせていただくことができた貴重な体験だと思っている。自分自身がアルバイトで働いたことで、実際にオーストリアで働く人々と直接交流し、いろいろな人の生き方や価値観に触れ、私自身の人生観や考え方に大きな変化を与えられた。グラーツで学んだこと、感じたこと、考えたことをしっかりと見つめ直し、これからの私の成長につなげていけるよう努力していきたい。
優秀賞受賞作品 文学部生としての意地
「文学部生としての意地」
谷本 響司(人文学科1回生)
私は大学進学に際し、文学部に進むことが決まった。すると多くの友人が「文学部って本読むだけだろう」とどこか小馬鹿にしたような言い方をする。親戚は「文学部なんか就職ないぞ」と決めつける。私はこのような言葉に非常に憤りを感じた。文学部とは人文学を広く扱うため専門的な内容となるとかなり多様であり、当然ながら本を読むだけではない。「文学部=就職できない」という決めつけにも反発したくなる。しかしそのことを言葉で表そうとすると言いたいことはあるはずなのにうまく言えないのである。私は日頃から人にうまく説明できなければ本当に理解できたとは言えない、と考えている。したがって私は文学部とは何なのか、文学部で何を学び、文学部を出た後それをどう活かすのかということが結局のところはっきりしていなかったということになる。そのことを自覚した私は少し不安になった。しかし私の進路はそのときすでに決まっていたのだから、今更変えることはできない。私は入学後、神戸大学で前期の授業を受けながらそれらについてもう一度よく考え直すことにした。すると文学部でしか学ぶことのできない重要な要素を発見したのである。さらにその「重要な要素」は社会貢献に役立つものとなりうる。結論から言うと、私は文学部で物事の考え方について学び、その内容を就職などという人生の一部に活かすにとどまらず、人生全体を大きく左右する大事な能力とするという考えに至った。さらにその能力を利用して私なりの社会貢献をしていこうとするのである。
そもそも、私が文学部に進もうと決めたのは高校の国語の授業で言語学に興味を持ったからである。だからと言って言語学を専攻しようと決めていた訳ではない。言語とは元からあるものに名前を付けるものではなく、言語によって世界が分節化されるという考えに納得させられ、また今まで考えもしなかった新しい考え方に衝撃を受けたためであり、その「斬新さ」が魅力だったのである。
文学部では非常に広範囲の学問の内容が扱われている。私は神戸大学に入学し、文学部で新たなことをたくさん学んだ。そこでも自分が考えもしなかったものの考え方が存在することに衝撃を受けた。例えば文学は必ず存在する表現上の制限の中でいかにして言いたいことを言うか、というものであることをはじめて知り、時代や作者の背景なくしては語れないこと、自分がこれまでそんなことは意識せずに文学を読んだつもりでいたことに衝撃を受けた。言語学では「カップ」と「コップ」の違いから、語には「典型」を中心としてそれに近い意味であるほど使われる可能性が高いことを知った。そのほかにも史学や芸術学、心理学など文学部で学ぶことのできる内容は非常に多岐にわたっており、自分の知らない事実や考え方が多くあった。このようにして私は自分がいかに無知であるかを思い知らされると同時に、前期の「~入門」の授業ではそのほんの一部しか知ることができずもっと深く知りたいという欲が掻き立てられた。つまり、もし私が「文学部とは何をするところなのか」と聞かれれば「新たな知識、考えと出会い、自らのものとしてそれを深めていくところである」と答えよう。決して本を読むだけではない。
次に、第2の点、すなわち私の親戚が言った「就職がない」という点である。たしかに他の学部と比べ、何を習得するのかはっきりとしていない部分は多くあるだろう。例えば工学部なら建築の仕組みを学び設計士になる、電子工学を学び精密機械製品の製造に関わる、法学部ならば法律や裁判について学び将来は弁護士になるなど、習得した内容がそのまま将来の仕事に使える学部の方が優れているというかもしれない。そういった専門性はその分野で非常に役立つものであるのは確かだろう。それに比べ文学部で学ぶことは研究職などにつかない限り直接的に仕事に役立つものではない場合が多く、専門性に欠けると言われるかもしれない。それで多くの人は「就職がない」とか「仕事に役立たない」などというのである。だがそれは安易な考えであると私は考える。専門性とは裏を返せば応用が難しいということであり、仮にその分野で人が余ったり、機械の発達により人間の手が必要なくなったりした場合その専門性は全く役に立たないという事態にもなりかねない。実際そのような例も少なからずあるだろう。では私たち文学部はどうだろうか。一見すると専門性が低いという点は、逆に捉えれば何にでも応用が利くということである。例えば物事を多面的に捉える重要性やその方法を知っているために他の人が考え付かないような重要な何かに気がつくことができるかもしれない。また、合理的かつ独創的に考えられる脳はどんな場面においても「武器」になるのではないだろうか。私は現在メディア関係で就職したいと考えているが、そこでも独自の考え方、ものの見方というものは非常に重要になってくると考えている。1つの事柄について多面的に考え、発信していくなどである。その能力を身につけるのに非常に有効なのは文学部で学ぶことだと考える。「見かけの専門性」が低いために得られる「文学部の専門性」である。つまり私にとっては仕事をしてよりよい形で社会に貢献するためにも文学部に進む必要があったということなのだ。
さらに言えば、文学部で学ぶことのできる内容は仕事に役立て、社会貢献することのみを目標としているのではない。仕事で役立つ内容といっても、所詮は仕事の範囲内でしか役立たないものであり、仕事をしていないときは関係のないこと、役に立たないこととなってしまう。しかし文学部で学ぶ人文学は私たちの日常生活と非常にかかわりの深いものであるため、仕事に限らず人生という大きな枠で捉えても役立つのである。例えば何か困難にぶつかった時、物事には様々な捉え方ができるということを知っていれば自ら工夫して困難に立ち向かう方法を考えられるかもしれない。あるいはもっと根本的な部分として人文学を学んでいれば自ずとよい人生とは何か、といった「生きる」ことの意味を問い直すことができ、充実した日々を送ることができるかもしれない。そういったことから見れば「仕事に役立つ」などというのはほんの小さなことに過ぎないように思えるし、文学部で学ぶことは非常に価値があることだと考えるのである。また、高齢化の進む現代では退職後の生き方にも真剣に向き合う必要性がますます高くなっていくだろう。そういった面から見ても文学部で学ぶことには大変意味があると言える。これが私の強調しておきたい点である。
しかしここで注意せねばならないことがある。それは今私が述べたようなことを常に意識し、実践していくのは非常に難しいということである。もし簡単ならば、私が冒頭で紹介したような、友人や親戚からの言葉に簡単に反論することができただろうし、さらに言えばそもそもそのようなことを言われることもなかっただろうと思うからである。そのようなことを意識し続ける方法のひとつとして、こうして文章として書くというのは非常に有効である。文章で書くには十分な理解が必要であるし、書いて残ったものはいつでも読み返すことができるからである。また日常で疑問に思うこと、気になることなどがあれば意識的に今までとは全く違う視点から捉えてみる練習をすることは良い実践機会となるだろう。意識を常に持ち続けるために主体的に行動することが求められているのである。そうでなければ直接仕事につかえる専門的な内容を学んでいる他学部の人たちと比較してその代わりとなるものを何も得ていないことになってしまう。
私は自身の進む道を小馬鹿にされた憤りから文学部で学ぶことの重要性について考える機会を得た。もし友人や親戚からの言葉がなければこのようなことを考えずに何気なく文学部で日々を過ごしていたかもしれない。しかし私はその機会を逃さず、じっくりと自身に問いを重ねたのである。その結果としてこれまでに述べたような自らの目標とそれを達成するための注意点を明確にした。物事の様々な側面に触れ、その考え方を学ぶこと、さらにはそれを自らの人生に活かしていくこと、それらを常に意識し続けることである。これらは一見すると抽象的すぎて実践できないように思われるかもしれないがそうではない。むしろ人生においてどんな形でも応用が利くという点で非常に実践的である。文学部で学ぶことは実際社会に出ても大して役に立たないという考えは人文学の重要性に気付いていない人の発言なのではなかろうか。私は文学部に所属し、文学部で学ぶことに誇りを持ち、勉学に励みたいと考えている。そして独創性の力で社会に向けて誰も考え付かないような提案をしたり見逃されていた問題点を投げかけたりしていきたい。あるいは時代そのものを変えてしまうような考えを提案したいという「野望」も持っている。それが私個人の充実につながるだけでなく社会貢献の最善の方法となると私は考えるのである。
優秀賞受賞作品 「普段接する機会がない人と出会って」
「普段接する機会がない人と出会って」
三宅 陽平(哲学専修4回生)
スポットライトがこちらを照らす。逆光でほとんど前が見えないが、何百という顔がこちらを見ているのはわかる。ここにいるほとんどの人が学生と普段接する機会がない人々だ。用意した原稿に目を落とすが、強いライトのせいで光が反射し、文字が見えない。落ち着き、何度か練習した記憶を辿り、マイクに向かって声を張り上げた。
「びっくりした。恐かった。最初にアスベストによる被害の実態を知った時、私達は驚き、恐怖をおぼえました…」
市立勤労会館の大ホールは水を打ったように静まり返った。
『日本を飛び出さぬ若者』という見出しを新聞で見つけた(朝日新聞8月1日朝刊)。この記事によると留学者数はここ10年頭打ちのの状況が続き、アメリカ留学に至っては97年の4万3千人から右肩下がりで、一昨年に3万人を割っている。さらに、海外旅行に出る若者(15歳~29歳)もこの10年間で34%減ったとある。不況で海外どころではない、留学で就職戦線に乗り遅れる、インターネットで世界が繋がり、パソコンを通して好きな時に海外に行くのと変わらないことができる、といった考え方が主な原因らしい。
私も学生時代日本から出たことはない。しかし、これには理由がある。国内でも様々な価値観に触れ、多様な考え方に触れると考えたからだ。大学生の間は社会人に比べ、時間を自由に使うことができる。どのようにしてこの貴重な時間を有意義に使おうか。大学入学を控えていた私は考えた末、一つの大学生活の目標を立てた。
「普段接する機会がない人と交流し、多様な視点から物を見て、そこにどのような問題があるのかを学ぶ」
まず、アルバイトとして私が飛び込んだのは吹田市万博公園の近く、裏に大きな山がある障害者支援施設であった。大阪の千里ニュータウンが作られる以前の自然が残った町にあり、外装は綺麗で、身体障害をもつ方が入れる大きなお風呂とリハビリ用の温水プールが完備されている。
私の仕事はこのお風呂と温水プールの管理と障害をもつ利用者さんへの応対が主のなものである。時に、注意や指導をしたりすることもある。土曜日、日曜日が出勤日で9時から17時まで施設を駆け回る仕事はハードなものであった。また、利用者さんとのコミュニケーションなしには成立しない仕事であった。
当初、このコミュニケーションの取り方に私は苦労した。身体障害、知的障害にほとんど無知であった私は従業員と利用者との関係の中で障害をもつ人とどのように接すればよいのかわからなかった。特に私の頭を悩ましたのは年配の障害をもつ利用者さんとの接し方であった。というのも、親以外の年配の方と接する機会は今までほとんどなかったので、私は話かけたり指導することを躊躇してしまいがちであった。後から聞いた話によると、年配の利用者の方も若い人と接することに抵抗があったということであった。
そこで働きはじめてが一年を過ぎた頃から少しづつ溝は縮まるようになってきた。きっかけは昼休みに話すようになった阪神タイガースの話題であった。その頃から徐々に私の考え方も変わっていった。身体や精神の障害を持つからと言って特殊な人間ではなく普通の人間であり、笑うときもあれば不機嫌な時もある。阪神タイガースが好きな人もいれば、巨人のファンな人もいることがわかった。こちらが「特殊な人」という意識をもっていては、相手も態度が硬くなるのは当然であり、良好な関係は築けない。
信頼関係が生まれると同時に、彼らが抱えている社会的な問題も聞くようになった。障害者自立支援法の応益負担による生活困窮、法定雇用を守っている会社で働いても、一律に障害者としてみなされ単純作業のみ与えられ、能力に依って仕事を任せてもらえないことなど相談を聞くようになった。私は普段、知ることのないような悩みを真剣に聞くにつれ、問題意識を持つようになった。
ある朝、60代の身体障害を持つ方が笑顔でポツンと言った。
「兄ちゃん、信頼しとるで。」
私はこの一言を忘れることができない。目には見えない「信頼」というものを実感した。この仕事ではコミュニケーションの大切さから、仕事に責任感をもつこともまでたくさんのことを学び、また大切な知人が多くできた。
さらに、私はもう一つ違う世界に飛び込んでいる。それが文学部の倫理創生プロジェクトの一関で取り組んでいる「アスベスト問題」である。きっかけは授業を通じて、阪神大震災の際、倒壊した建物でアスベストを含む建材が剥き出しになり、復興作業に従事した一般の人を含む多くの人がアスベストを吸引した可能性があることを知ったことにある。
アスベスト(石綿)とは耐火材や防音在として建物におおく使われてきた建築材である。髪の毛の5000分の1ほどの細さで飛散しやすく、これを吸うことで治療が難しい中皮腫や肺がんを発症する。また、最初に石綿を吸ってから20~60年と潜伏期間が非常に長く気付かず、労災認定なども受けにくい。国内では中皮腫で年間1100人が死亡し、肺がんを含めると3000人と推定され、被害のピークはこれからと見られている。
私はそれまで「アスベスト」という言葉をどこかで聞いた事がある程度で、どこか遠いところで起きているものだと思っていた。しかし、調べていくうちに、震災時の事例のようにアスベスト工場などで働いていた人以外の工場近くに住む一般の人までもがアスベストによる被害を受けていたことを知った。
昨年の夏、専修の仲間と熊本県水俣市を訪れた。公害という観点から水俣病の患者の方や現地の支援者・研究者と意見を交わした。また、アスベスト問題についても、神戸市、尼崎市、泉南市と多地域の被害者の方、関係者の方に繰り返し聞き取り調査を行ってきた。その中で見えてきたものが、被害者の方々の「忘れてほしくない」という思いであった。アスベスト問題は新たな被害者や裁判の判決が出る度、ニュースや新聞で取り上げられてきた。しかし、数日すると報道がされなくなる。多くの人々はそれを徐々に忘れていく。被害者の方はそれが怖いのだ。問題が風化されることにより、アスベストによる被害というものがなかったことになってしまうのではないか、新たに肺を悪くした人が出てきても、彼らはその原因がアスベストであることを疑わないのではないかとの危惧がある。そして、被害者の方は口を揃えて言う。「忘れさせないためにも、これから次代を担う若い人たちに関心をもってもらいたい。」
2010年1月、阪神大震災から15年『震災とアスベストを考えるシンポジウム』が神戸市立勤労会館で開かれた。若い人も危機感を持っていることを被害者の方々に伝えたいという思いから私は「アスベスト被害のない社会を」という題で、壇上で「宣言」を行うことを決心した。
会場をのぞくと、予想していたよりも多く、数百人の人がいた。中には何度かお会いした事のある研究者・医師の方や解体工として働く人、若い人の姿も見える。
「それでは神戸大学の学生さんから『宣言』を行ってもらいます。」
緊張して強張った表情の私に、司会の方が合図を送る。こんなに多くの人の前に話したことはほとんどない。幾度か練習はしたが、大丈夫だろうか。若い人が関心を持っていることを知れば、勇気付く人がいるかもしれない。この強い思いを伝えねば。拳を握り締め、ライトが照らす舞台に足を進めた。
大学生活を有意義に過ごす方法は何だろうか。同じような服装、近い年齢、そして、同じような環境、経済状況で育ってきた学生同士で日々語り合い、一緒に過ごすことは楽しいし、心地よい。だが、それだけは見えてこないものもある。もちろん、これは学生だけに言えたことではない。社会人になっても、退職しても、基本的に私たちの周りにいるのは同じような環境で歩んできた人が多い。今、家庭や経済的な状況から貧困格差が広がっている。この格差間の人の出会い・交流はあるのだろうか。
留学などを通して、日本人と外国人という異なった世界に住むものが出会うことは大切だ。それと同じように、国内の異なった世界に住むもの同士が出会うことも大切である。高収入と貧困者が出会う場はあるのだろうか、障害や国籍または性で悩む少数の人と、このような問題を抱えていない人とが語り合う場はあのだろうか。相手の立場からものを見て、考えないとそこにある問題はなかなか見えてこないし、真剣に考えることができない。さらに、多様な価値観を認め、共に歩んでいくという意識がこれから大切になってくる。私はそれを求めてチャレンジし、そして、貴重な経験を得てきた。今、大学卒業を控えて、就職活動や卒業論文の準備に奔走する日々を送っているが、大学入学に際して考えた目標のいくつかは達成できたと思っている。しかし、まだ私の知らない世界、私の知らない社会問題は多くあるだろう。私はこれからもチャレンジしていく。そして多くの人が異世界に飛び込み、そこにある問題を真剣に考え、交流する時代が来た時、今より多くの人が人と人のつながりを大切にし、幸せになることができると思う。
佳 作 「父と野球、僕の決断」
「父と野球、僕の決断」
姉川 拓生(人文学科1回生)
僕は小・中・高と野球をしていた。まず小学校で始めたのは、なんてことはない、野球以外に学校でできるスポーツがなかったからだ。人数は14人と少数で、片田舎のスポーツ少年団によくあるような、仲良しの集まりだった。ただ、何か変わった事情があるとするなら、そのチームの監督をしていたのが僕の父だったことだろうか。
父はいまどき珍しい、昭和の野球男の典型だった。自身が高校野球で熱心にしていたからか、父と何かをするとなればまずキャッチボールだった。僕が左利きだからといって、「おまえはいいピッチャーになれる」と機嫌良く言ったものだ。親戚の人や父の友人にも散々僕のことを吹聴するので、僕がかえって気恥ずかしくなるほどだった。
しかし僕自身は、熱血・根性・やる気といった精神論が大嫌いな、いまどきのひねた価値観の持ち主だ。はっきりいって、父の過剰な期待は荷が重かった。それが態度やプレーに出ると、父は容赦なく僕をしかりつけ、時には手も出した。今から思えば、それは息子だからといって甘えを許さず、ただ純粋に野球に向き合ってほしいという、父の思いの表れだったのだろう。まともに怒ることができない人が増えて問題になるほどなのに、息子を厳しく叱る父の気持は、どれほどのものだったのだろうか。それでも、そう思おうとしても、当時小学生の僕には理不尽に思えて仕方なかった。そのあとで、家に帰るのがつらかった。幼心には恐れしかもたらさなかったのだ。週末ごとに、学校へ行く自転車のペダルを回していたのは、半分は父の力だったのかもしれない。
中学生になると、さすがに父が監督をすることはなかった。野球を続けようと思ったのは、今ではあまり思い出せないが、きっとそれが当然だと思い込んでいたからだろう。当の監督はいつもにこにこしているような人で、僕たちは小学校の時よりもはるかに自由に野球ができた。それには賛否両論あるだろうが、僕はそういうのが好きだった。そのため、父が監督と親しくなって、互いの野球論をかわすようになったのには、僕は快く思わなかった。家に帰っても、やれあいつとどっちが背が高いか、球が速いか、打つのがうまいかといったことばかり話すので、うんざりした僕は「知らない」「わからない」を連発していたのをよく覚えている。
高校生。初めて僕は野球を続けるか本気で悩んだ。母の「そんなバカの一つ覚えみたいに野球やらなくても……」という言葉が重く響いた。決め手になったのは、野球ならきっと活躍できるから、と言えば聞こえはいいが、結局は僕に勇気がなかったからだ。経験者だらけの中で新しいことを始める勇気も、父の期待に満ちた顔を裏切る勇気も。
とはいっても進学校だ。名目上は勉学優先で、1に生活、2に勉強、3に野球がモットーの野球部である。部員は同年で8人。みな陽気で騒がしいやつだった。中には野球をするためにここに来た、というやつもいた。はっきりいってそれには引いた。僕は進学率を優先して入学を決めたし、野球は片手間に趣味程度に、と考えていたからだ。
しかし、明らかにそんな考えは通用しなかった。毎朝7時15分から朝連、放課後は18時までだったがクタクタになり、家に帰っても勉強に手がつけられないこともあった。
何かをしていると、ふと自分はどうしてこんなことをしているのだろう、と考えることはないだろうか。とりわけ、単純な作業や面白みのないことをしている時などによくあるものだ。僕は部活をしているときによくそれを感じていた。僕は一体何をしているんだろう。他に何かもっと大事なことが、やるべきことがあるんじゃないのか。漠然とした不安や焦燥、倦怠感。それでも流れに身を任せて大声でがなり、足がつるまで走り、爪が割れるまで球を投げる。ともすればその疑問を忘れてしまうために、思考を鈍らせようとしていたのかもしれない。
それでも僕は3年間野球を続けた。それはきっと、先のように僕に勇気がなかったこともある。やめていった部員もいた。彼らの決意は強固で、僕にはまねできないものだった。僕は周囲の目や世間体を気にして、学校生活に支障が出ることを恐れていた。だから毎日同じような日々を送った。惰性、といえばそれまでだ。確かに1日を作業的な目で見ていたこともある。あまりにも「作業」という言葉がしっくりきて、もう開き直りに近い感情を抱いたのを覚えている。
上級になるにつれ、勉強のほうがおろそかになり始めた。学内で3位以内に入っていたのが10位、15位と落ちていった。僕はあせりだした。そのしわ寄せが来たのか、3年の春の遠征で、投球が全くコントロールできなくなった。そして、散々監督に罵倒された揚句、みじめに交代した。それからは、スポーツ療法の先生にレクチャーしてもらったり、フォームの改造に取り組んでみたりしたが、結局どれも中途半端で終わってしまった。あまりにも時間がなかったのと、1年の秋からエースを任されていた僕の安っぽいプライドが邪魔をしたからだ。
混乱したまま、最後の夏を迎えた。僕はそれでもエースナンバーを背負って、先発のマウンドに立った。
結果は、1回戦負け。
明らかに、僕に非があった。1年近くしか経っていないのに、記憶にもやがかかるほどのみっともない内容だった。4回で交代した僕の耳には、こんな声が聞こえてきた。「なんで、あいつが先発したんや」。
涙は出なかった。
試合後は、いろいろな人たちからねぎらいの言葉をもらった。しかし、どれも僕の心の表層を上滑りしていった。だから涙は出なかった。泣いているチームメイトを見ては、僕は薄情なのだろうか、とぼんやり思っていた。地方局のインタビューの際には、うすら笑いさえ浮かべていたほどだ。
そんな時に、父からメールが届いた。そこには簡単に、こう書いてあった。
「よう頑張った。3年間お疲れ様。これからはゆっくりしたらええ」
僕はそこで初めて泣いた。どうしてその言葉が心に届いたのか、自分でもわからなかった。あんなに、父のことをうっとうしがっていたはずなのに。早く、部活を引退したかったはずなのに。
父は、高校ではさすがに直接学校まで来ることは減ったが、高校野球連盟の審判員であるために、なにかと接点が多かった。練習試合の主審を無償でしてくれたり、家に部員を呼んで野球談議を繰り広げたり。自然と、僕との会話も野球の話が主体になっていた。今考えても、他にどんな言葉を交わしていたのかを思い出せないほどだ。
僕と父の間には、いつも野球があった。小学生のころから、僕と父は野球を介してつながっていた。それが嬉しかった時もあれば、迷惑だったこともあった。引退というのは、父との大きな接点を失うことでもあったのだ。おそらく、父のメールを受け取ったときには、僕を誰よりも近くで見守ってくれていた父の存在を改めて実感し、心が揺さぶられたのだろう。不覚にも。
その後の受験期には、父と言葉を交わすことは少なかった。しかし、大学に合格したのを一番喜んでくれたのは父だった。発表日当日、サイトのアクセスが込み合ってなかなか表示されないことにやきもきしていると、父からメールが届いたのだ。
「・・・・・(受験番号)やろ。あったで。おめでとう」
短い文面からは、それでも父が興奮しているのが伝わってきた。僕は拍子抜けだった。自分で確かめる前に、父から教わるとは。苦笑するしかなかった。
それから、しきりに大学野球を勧めてくる父に対して、僕は初めてはっきり意思表示をした。もう野球はやらない、ときっぱりと断ったのだ。それはつまり、僕が父の影響から抜け出し、自身で進む道を選択したということだ。恥ずかしいことだが、それは今まで初めてのことだ。そこまで言うからには、絶対に大学で熱中できることを見つけるんだ、という決意をもって神戸の地を踏んだ。
忙しい中でも、僕は自分とじっくり向き合い、今何がしたいのかを考えた。多くの「初めて」に恐れることなく飛び込み、自身をもって続けられそうなことを探した。そして僕は一つの文化系サークルに決めた。まだ活動が本格的に始まったとは言いがたいが、それの活動をいかに充実したものにしていくかは、僕次第だ。
自分がしたいと思えることを自分から選んだ僕は、毎日やりがいのある日々を送っている。そんな環境の中にいると、この楽しさを誰かに伝えたくなるものだ。そう思うと、父は本当に野球が好きだったんだなあ、といまさらながら実感する。
ゴールデンウィークに実家に帰ると、高校の後輩の野球の試合を見に行った。そこで、父は相変わらず審判をしていた。泥だらけのユニフォームに坊主頭が並ぶ中で、神戸かぶれの都会ファッションで髪も伸ばした僕はさぞかし浮いていたことだろう。
それでも父は変わらず、キャッチボールをしよう、と言ってきた。気恥ずかしかったが、後輩のグラブを借りて、父とキャッチボールをした。猛烈に懐かしい感覚だった。やはり僕の心の原点には、父と野球の記憶が根付いているのだろう。
神戸に戻ると、久しぶりに自分のグラブを取り出し、手入れをした。今までは押し入れにしまいっぱなしだったが、今は目につくところに置いている。それを触っていると、つくづく思うのだ。僕の父はなんて優しくて、そして不器用な人なのだろう、と。
面と向かっては絶対に言えないだろうが、父に今の思いを伝えるとすれば、僕はこう言うだろう。
父さん。僕は父さんじゃない。あなたと同じ考えをするわけではないし、同じことを好きになるとは限らない。だから僕に自分の理想を押し付けるのはやめてほしい。でもその分、父さんくらいに熱中できることを、きっと見つけてみせるから。息子が大学に行くまで、胸を張って勧められるほどのことを、自分の手でつかんでみせるから。
「今、重なる~識字教室体験談~」
和木 友絵(人文学科1回生)
識字教室って何だろう?ご存知ない方も多いはずだ。私も実際行ってみるまであまり知らなかった。私は今ボランティアサークルに所属していて、サークルの中でもいくつかのセクションに分かれている。識字教室でのお手伝いも、そのひとつのセクションだ。私はただ韓国に興味があっただけで、「韓国や朝鮮から来た人が日本語を勉強するところだよー」という先輩の言葉につられてしまったにすぎない。韓国の話を聞くこと目当てに識字教室に行くことを決めてしまったのだった。
少し長くなるが、まずは私がなぜ韓国に興味あるのか聞いてもらいたい。なんせ私の原点はここなのだから。
私と韓国との出会いは5年前まで遡る。皆さんは覚えているだろうか。2005年の春、中国で反日デモが連日起こっていたことを。日本商品不買運動やデモは政府の肯定によってさらに盛り上がり、日系飲食店や企業が攻撃の的となって壊滅的被害を受けた。日本大使館や総領事館も襲われるまでにもなった。私はこのニュースを前にして憤慨した。こんなんひどいわ!中国が日本の弱みつけ込んで日本いじめとるだけやん。戦争とか口実にして卑怯やわ。しかしそれと同時にもどかしさも感じた。中国の人々は本当に日本に悪いイメージを持っているのだろうか。そうじゃない人もいるはず。だったらその人を探したい。そしてもっと日本の良さをアピールしたい。でもその夢は叶えられなかった。海外派遣に応募しようとしたものの、親と先生の猛反対を受け、結局今年行くのならば韓国に行く、ということに落ち着いた。当時の韓国も反日デモが起こり、決して安全とは言えなかったが、だからこそ行きたかった。反日感情持っていない人もいるはず。韓国人の思いを直に感じ取ってみたい。そして見事試験に合格。1週間だけだったが、実際に韓国の地に足を踏み入れた。
私を取り巻く韓国人の方々は優しい人ばかりで何不自由することなく生活することが出来た。韓国の遠慮ない言い方や本場の辛い食べ物など、行ってみなければわからないものも吸収し、最高のひと時を送ったのだった。しかしひやりとしたこともある。バスの中にいると大柄な男の集団が乗ってきた。そしてかれらのTシャツには「I LOVE DOKUTO(独島)」と書かれていたのだ。独島は竹島の韓国名で、日本と激しく領土争いをしている島だ。私は日本人とばれたらどうしよう・・・と不安にかられ、バスを降りるまで口を固く閉じていた。
様々なことを体験し、1週間もあっというまに過ぎ、とうとうラストの日となった。この日はみんなで仏国寺という世界遺産にも登録されている鮮やかなお寺を訪れた。私は見物し終わって、日本人の友達と土産物売り場で品物を選んでいた。その時のことだった。「いらっしゃいませ。説明しましょうか。」私たちに一人のおばあさんが話しかけてきたのだ。どうやらここの店の人らしい。すこし日本語になまりがあるが、私たちに通じるような綺麗な日本語だった。確か韓国の占いについて聞いたと思う。おばあさんはそつなくにこやかに答えてくれた。しかし、私たちがお礼を言った後、友達は一言つけ加えた。「日本語お上手ですね。」と。私はその時のおばあさんの顔を見逃さなかった。笑顔なんだけど、少し複雑そうな、何か言いたげな、もの悲しそうな顔。おばあさんはそんな曖昧な表情を浮かべた後、何も言わず立ち去っていった。これという理由はなかったが、なぜか印象的で、その笑顔は私の脳裏に焼きついたのだった。
そして5年たった今、私は大学生となって神戸大学にやってきた。識字教室なるものの存在を知り、興味半分、不安半分で先輩に連れてきてもらった。識字教室は少し遠いが長田の公民館で行なわれていて、毎週月・水・土の3日、約2時間、やって来る学習者さんはおもいおもいに日本語を学ぶ。
多くの在日韓国・朝鮮人の方が神戸にも暮らしているが、その中に日本語は話せても、読んだり書いたりすることの出来ない方が結構いるのだ。そのような在日韓国・朝鮮人の方は新聞も読めず情報も遅れてしまい、世間から取り残されたり危険な目にあったりする。阪神淡路大震災の時、避難所などの場で、自分で名前を書けない人が続出し、この問題が認識され始めた。日本に住んでる韓国人・朝鮮人の方を助けたい。そうして創られたのが識字教室である。長田の識字教室には、韓国・朝鮮人だけでなく、子供の頃勉強できなかった日本人の方や中国人の方もい
らっしゃる。災害時だけじゃなくても、やはり字の読み書きが出来ないと不便に違いない。それにこれは自分の主観だが、字を学ぶことによって自立した生活を送ることができ、思考や行動範囲の広がりによって自分の世界が大きくなるのではないだろうか。
さてさて電車を乗り継ぎ公民館に着いた私は、韓国の話聞けたらいいなあなどと思いつつ恐る恐る教室に入ってみた。すると、お年を召した方々がそれぞれ日本語で書かれた文章を音読している。おそらく15人ぐらいだろう。学校のように先生が教卓の前にいて、声を張り上げてあらかじめ用意されている文を読む。そして席についている学習者さんたちがその後について読む。文章は韓国の昔話やおとぎ話が多く、ふりがながふられているもの、ふられていないもの、漢字が空欄になっているものなどを先生が作り、学習者さんのレベルに応じて使い分ける。私たち学生は学習者さんの脇について、わからない問題に対してヒントを出したり、最後に答えあわせをしたりする。
私がはじめに喋った学習者さんは崔さんという、学習者さんの中では最高齢の方だった。今年で90歳だそうだ。崔さんは簡単な漢字は読め、ひらがなやカタカナを書くことが出来たので、音読の後はひたすら漢字の横にふりがなをつけていた。私ははじめ何をすればいいのか分からず、先輩と他の学習者さんとの楽しげなやりとりを聞きながら、何か声をかけねば・・・と内心焦っていた。考えるがいい言葉が見つからない。時々間違いを指摘するだけで時間が過ぎてしまっていた。まあ一番はじめだしこれでもいっかな、と思いはじめたとき、なんと崔さんのほうから話しかけてきてくれた。「韓国は虎の話が多いんよ。虎は昔から大切にしてたからねえ。」その日の文章は虎に関する昔話だった。そこから虎の話で花が咲いた。韓国ではもともと虎は信仰の対象であったが、今その数は減少しているそうだ。「虎に遭遇したことあるで。私はねえ、20歳まで韓国におったんよー。」話すうちに崔さん自身の過去もぽつぽつと語ってくれた。10代に結婚して、韓国の伝統衣装であるチマ=チョゴリを着たこと、終戦時に日本にやってきたことなど。しかし、話している最中に何度も崔さんが口にした言葉がある。それは、「昔のことは、み~んな忘れた。」だ。崔さんはそう言いながら笑っていたけど、本当はしっかり覚えているに違いない。私に話してくれたことだけでなく、韓国での生活や家族のこと、日本に来たことのこと、その時の祖国に対する想い、そして新たなる地・日本に対しての想いも。
そして、その笑った表情に私の頭は洪水にあったような感覚になった。ずっと昔の記憶から呼び出されるものがあったのだ。なんだろう。しばらく思い巡らせた結果、答えに辿り着いた。そう、韓国の土産物売り場で出会った、あのおばあさんの笑顔だ。
二人の笑った表情がとても似ていたのだ。表情では二人とも笑っている。しかしそこからもの悲しい、寂しげななにかが伝わってきたのだ。あの二人の笑顔は心から幸せで出た笑顔だったのだろうか。いや、それはないだろう。崔さんの「忘れた」の言葉の裏には、忘れたのではなく、忘れたいことがあったのではないだろうか。祖国を捨ててまで日本に来たのだ。そこには私の想像を超えた、果てしない苦しみや悲しみがあったに違いない。そしてその記憶は、そう簡単に色あせるものではないだろう。では韓国で出会ったおばあさんはどうだろうか。「日本語、お上手ですね。」と言われたら普通嬉しいものだろう。韓国人にとって日本語は、母国語ではなく勉強して身につけたものである上、私の友達も悪気なく純粋に口にした言葉だ。どちらかというと褒め言葉だ。しかし、おばあさんの胸には別の感情があったに違いない。私がここで思い出したのが、戦時中の日本教育だ。日本は1910年、韓国を併合し、武力で植民地政策を押し進めた。学校では朝鮮史を教えることが禁じられ、日本史や日本語を教えて、日本に同化させる教育が行われた。もしかしたらおばあさんは日本語を強制的に学ばされた一人なのではないだろうか。そこで学んだ日本語を今でも使っているのではないだろうか。終戦から60年。戦争を知らない世代が大半となった今、刻々と風化しつつある。あの「日本語、お上手ですね」という言葉は、私たち若者の戦争の無知さを象徴するものとなってしまったのだ。きっとあのおばあさんは、日本の学生は戦争で自分の国が韓国に何をしたか知らないのだと悟ったに違いない。本当は恥じるべき言葉だったのだ。
もしかしたらこれはただの私の思い込みかもしれないし、たとえこの考えがあっていたとしても、戦争を知らない私がおばあさんたちの苦しみなんて語る権利はない。私の書いていることはおばあさんたちにとって失礼なことかもしれない。けれども誰かに伝えたかった。私たちにとっては過去のことでも、忘れることなく覚えていて、そ
れによって苦しんでいる人がいるかもしれないってことを。そして私はそれをおばあさんたちから学んだってことを。
住む国は違えど、二人の笑顔の裏には、祖国韓国に対する思いがある。二人は日本の侵略によって運命を変えられながらも、一方は日本語を使って土産物を利用し、もう一方は日本に遥々と来て生活するなど、日本に頼って生活している。
韓国の土産物売り場のおばあさんと、日本で識字教室に通うおばあさんとが、今、重なる。私が出会ったとき、二人とも笑顔だった。しかしその笑顔に、無言のメッセージが込められている。
